アルタイル

「雨、止まねえなぁ」
 週末から降り続いていた雨は七夕の今夜も変わらずに黒い雲が空を覆い隠し、屋根や窓に容赦なくその粒を叩きつける。雨樋を駆け抜けていく水流の勢いは時間を追うごとに増し、流れ落ちた地面に小さな川をいくつも作っている。 拓海の部屋の窓から外を覗きながら大きなため息をついた啓介は、体の下から伸びてきた手に捕まった。
「こんなときによそ見、ですか」
 少し不機嫌な頬は熱を帯びて朱に染まっている。潤んだ目に縋るように腕をつかむ指、汗ばんだ額に張り付く前髪、啓介を飲み込んで離さない奥深くの蠢き、拓海を形作るすべてがまっすぐに啓介へと向かってくる。
「いてて、締めンなって」
 突き出る唇に許しを請うように口づければ、逆立てた髪の先にゆっくりと指が触れた。金色のたてがみは啓介のトレードマークでもあり、暗い部屋で揺らめくその毛先を弄ぶのを拓海は好んだ。 啓介は遠慮がちで控えめな愛撫を受けながら拓海にキスを繰り返し、頬まで降りてきた手を取ると指先を絡めた。体を揺さぶり、肌を触れ合わせれば唇の間から熱い息が漏れる。
 雨音で掻き消される拓海の小さな声に耳を寄せ、その体をきつく抱きしめると一層甘い声が零れ落ちた。

 風呂上りの火照った体のまま、啓介は軒先に出た。雨の激しさは緩まず、跳ね上がる飛沫で足がすぐにずぶ濡れになった。見上げた空も相変わらず真っ黒いままだった。天の川どころか星の欠片一粒さえも見えやしない。 ため息を一つついてドアを閉めるとついには雷鳴まで響きだし、風にあおられた雨がバチバチとガラス窓を叩いている。
「啓介さん?」
 呼ぶ声に振り向くと拓海が後ろに立っている。啓介はごく自然に拓海の腰を引き寄せて口づけた。腕の中の拓海は驚いたような表情も見せず、ただほんのりと頬を染めて目線を逸らせた。
「雨、止まねえなぁ」
「台風が近づいてるらしいですよ」
 同じ言葉を呟く啓介に小さな笑みを浮かべて答えながら部屋に入ろうとする。 啓介は拓海の頬に手を添え、湿った髪に鼻先を差し込む。いつもと同じ、嗅ぎなれたシャンプーのにおいが鼻孔をくすぐる。栗色の毛先から雫がぽたりと手の甲に落ちた。
「泊まっていこうかなぁ」
「別にいいけど、配達の時間には起こしますよ」
 拓海はいたずらっぽく笑みを浮かべ、しぶい顔をする啓介の髪にタオルをかぶせると部屋へと戻っていく。 啓介も拓海の後に続き、部屋に上がった。
「……そんなに星が見たかったんですか?」
 拓海の部屋に戻っても相変わらず窓の外を眺める啓介に、拓海が呆れたような口調で言った。
「そういうわけじゃねえけどさ」
 啓介はベッドを降りて拓海の隣に座ると、用意されていた麦茶に手を伸ばした。
「織姫と彦星って年に一回だけなんだろ、会えるの」
「働かなくなったからでしたね、確か」
「オレらも結果出さなかったらアニキに会うの禁止とか言われたりしてな」
「……それは、……ちょっと、あり得そうっすね」
 小さな唸り声を上げる拓海を、啓介は横目で盗み見る。
 拓海との関係を始めるときに、啓介は兄の涼介にだけは打ち明けた。 自分だけなら隠し通すこともできたかもしれない。だが敢えて正直に告白することを選んだ。拓海が涼介に対して嘘を突き通せるとは思えなかったこと、秘密を抱えることで重荷やストレスを感じさせたくなかったこと、 何よりあの兄を欺くよりは味方として懐に入ってしまうことのほうが啓介にとっても拓海にとってもメリットが大きかったことが主な理由だ。
 拓海にそのことを持ちかけたとき、もしかしたら反対するかもしれないと不安もあったが、啓介の想像していたよりは素直に提案を受け入れた。 結局二人そろって涼介の前で二人の関係が兄の負担にならないこと、Dの活動には絶対に影響させないこと、その他もろもろを宣誓してやっと承諾を取り付けたその時から、ダブルエースとしての仕事はきっちりとこなしてきた。 未だ負けなしを誇るチームに、これから先も泥を塗るわけにはいかない。そんなことは重々承知で、けれども求めることはやめられなかった。今夜のように平日だろうと構わずに会いに来てしまうほどには、啓介は拓海に溺れている。
「ま、絶対言わせねえけどな」
 くしゃりと頭を撫でると、拓海はわずかに頬を染めながらオレもです、と小さく笑った。
 拓海が勝ち続ける以上、啓介は負ける気はなかったし、自分だけが負けるなんて無様なことはエースとしてのプライドが許さなかった。ピリピリと張りつめた緊張感やプレッシャーも、すべてが良い方向へと二人を向かわせる。 そうあるべきに進んでいくし、今の二人にとってはそうでなければいけなかった。Dの活動を終えた後のことも時折考えはするが、今はとにかく目の前にある勝負にすべて勝つこと、それも完全勝利が絶対条件だった。
 ステアリングを握っている間、この男は今とは全く別の顔を覗かせる。強い光を放ち、他を圧倒するようなドライビングテクニックを見せつけ、奇跡のような幸運をも引き寄せる。 そうかと思えば普段の拓海はこれがあの秋名のハチロクかと驚くほどぼんやりとした顔を見せる。そのギャップが堪らなく啓介を夢中にさせた。
 束の間の休息にこうして恋人と甘い時間を過ごすことが、少なくとも啓介にとっては重要な意味を持っている。
 拓海とのセックスは好きだ。体を繋ぐことは気持ちがいいし、言葉の少ない恋人との大事なコミュニケーションでもあり、何より触れ合うことで癒される。 最中の顔を思い浮かべれば、拓海も同じ思いのはずだという自信も、少なからずある。会えば必ず、という頻度ではなかったが、次のバトルまではまだ日があるという安堵から、求める気持ちが止められないでいる。
「あ……っ」
 無防備にもベッドにもたれたままうとうとし始めた拓海の隙をついて、啓介は顎をすくい上げて唇を重ねた。びくりと体を跳ねさせた拓海は啓介を窺うように視線を上げ、おずおずと手を伸ばした。
 可愛いと、およそ年の近い同性に抱くような感情ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
 濡れて勢いを失くした髪の毛に拓海の手が触れる。いつだって好きにしていいのに、髪だけでなく啓介の何もかもを拓海だけが好きにできるのに、拓海はこうして啓介から触れた時以外は啓介の髪に触ろうとはしなかった。 傷んで触り心地が決して良いとも言えない髪を、あのハチロクを操る手が愛おしそうに撫でてくる。啓介の舌技にその手の動きがだんだん鈍くなるところも、征服欲をかき立てる。
「けーすけさ、……ッ」
 ぎらつく欲望を見つけてとろりと溶けるまなざしに、悔しいかな啓介のほうが降参寸前だった。まるで自分の手足のようにハチロクを乗りこなす拓海は、視線ひとつで啓介を操る。畳の上に押し倒し望まれるままキスの雨を降らす。
「藤原、好きだ……っ」
 会いに行く。この先たとえ年に一度も会えなくなっても、必ずこの手で抱きしめる。
 掻き抱く体が熱を持ち、小さく震えてその想いを伝える。唇が弧を描いて、背中に回った腕に力がこもった。
 再び熱い吐息が混ざり合うその頃、降り続いていた雨は止んで雲の切れ間から小さな星が顔を覗かせる。そっと静かに、ひと際輝く一等星に、柔らかなたてがみが照らされるまではあと少し。

2014-07-07

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