always
拓海の部屋へ着く頃にはすっかり日も暮れていた。久しぶりの和食で満たされた腹をさすりながら、半歩後ろを歩く啓介の視線を痛いほどに感じている。ちくちくとするうなじを一度手で覆い、ポケットから鍵を取り出す。
「へー、けっこういいとこじゃん」
新しい部屋に啓介が実際に入ったことはなかった。腕時計を外し、鍵と一緒に玄関に置いてあるトレーに乗せる。啓介にスリッパを出しつつ拓海本人は好んで裸足になっていた。
玄関を入ってすぐの廊下には左手にバスルームとトイレが並んでいて、その先の居室との仕切りになっている引き戸を開けると正面にベランダにつながる大きな窓とキッチンがあり、その右手にリビングと和室がある。
家にいる間はおおかたこのリビングで過ごし、和室には布団と小さな棚以外に家具はなく、寝るときと簡単なトレーニング時に入るだけだ。
啓介は、内見に来たときの拓海と同じようにきょろきょろと部屋中を見回し、窓を開けてベランダに顔を出した。
近所には川沿いをジョギングをできるコースや24時間営業のスーパーなどもある。夜になるとあまり分からないが、窓からの展望も気に入っている。
「あ、何か飲みますか? 酒はないけど……っと」
啓介の隣を離れようとした瞬間、ぎゅっと抱き寄せられた。少し前まで散々抱き合っていたのに、まだ足りないというのだろうか。そうは思いつつも拓海は啓介の腰に腕を回し、肩に頭を預けた。
「長旅だったのに疲れてないんですか?」
触れるだけのキスを受けながら、肩甲骨を指先でくすぐる。啓介は口角を上げ、拓海を正面から見つめる。自然と赤みを増す頬に指の背がゆっくりと滑る。
「久しぶりに会えたのに速攻寝たらもったいないじゃん」
「まだ明日からも十分時間あるじゃないですか」
「そんなこと言って、藤原のほうが疲れてんじゃねーの?」
するすると降りてくる不埒な指先を両手でつかみ、ひと睨みする。
「そうですね。そんなわけで今日はもうしませんよ」
「えーっ、まじかよ藤原ぁ」
駄々をこねるような物言いを後目にキッチンへと移動し、電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。ドリッパーにフィルターをセットしている間も拓海について回る啓介に「座って待っていろ」と素気なく指示をだし、背中を向ける。
大人しく引き下がる相手ではないことは承知しているが、1日にそう何度も受け入れられるほど拓海の尻は頑丈ではない。触れ合うことは嫌いではないし啓介の体温は気持ちいいが、何事にも限度というものがある。
ホットコーヒーを選択したのは間違いだったような気はしたが、淹れ直すのも面倒だと結論付け、マグカップを啓介の手に渡す。
ソファなど気の利いたものはなく、テレビの前にローテーブルと出国前に啓介がくれた大きなビーズのクッションがあるだけだ。啓介はそのクッションに体を埋めながら、まだ恨めし気に拓海を見ている。
エアコンがやっと室内の温度を快適にし始め、拓海はようやくカップに口を付けた。
「そういえばこの前渉さんと飯行ったんですけど、妹の和美ちゃんに結婚話が出てるらしいですよ。反対すると駆け落ちしかねないからとか、口ではせいせいするとか言ってたけどちょっと寂しそうでしたよ」
「あいつって超がつくほどシスコンだもんなー」
「それ啓介さんには言われたくないですよね」
拓海が笑うと啓介はツンと唇を突き出して見せた。
「オレはこれでも兄離れしてんだぜ」
「えー?」
「まじで。特におまえと付き合いだしてからは。つーかアニキにも言われたくらいだぜ」
「まさかー」
「オレを独占してるって自覚ないやつはこれだから困るんだよな」
「は?」
「そのくせ近づいたらすぐ赤くなったりさ、そういうとこいつまで経ってもたまんねーよ」
言いながら押し倒され、唇をふさがれた。苦みをまとった舌が滑り込んできて、頬の内側の粘膜をくすぐっていく。
深いキスと直に伝わる啓介の重みに体が熱くなってくる。啓介の狙い通りか、気づけば背中に腕を回していた。
一組しかない布団に寄り添うように眠ると、冷房が効いているとはいえ暑いものは暑い。シングルサイズの布団に二人で寝るのはさすがに厳しいから譲ると言っても啓介は承知しなかった。
お互いの主張に折り合いをつけ、腰から下ははみ出して半ば雑魚寝のような状況で寝ることにした。
数日間のこととはいえ啓介が泊りに来るのだから予め布団を買いに行けばよかったと考えながら、当の本人はこの状態を楽しんでいるようでひとまず胸を撫で下ろす。
兄のいる実家よりも拓海のもとへ帰りたいと告げられたときは驚いたし、照れくささもあるが嬉しかった。
「涼介さんと会うのはあさってでしたっけ。その日は家に帰るんですよね?」
「…………」
「啓介さん?」
「そのことなんだけどさ。藤原ってその日空いてる?」
「まあ暇ですけど」
啓介よりは早く休みが終わるが、その日はまだオフだ。久しぶりに池谷やイツキと会いにあのガソリンスタンドへ行こうかとも考えていたが、どうやらそうはいかない空気だ。啓介は起き上がり、後頭部を掻きむしる。
「アニキがさ、会わせたい人がいるんだって」
「そうなんですか。大丈夫ですか、啓介さん」
「いや、だからな、藤原にも会わせたいらしい」
「え?」
思わぬ台詞に拓海も起き上がり、啓介と向かい合った。
「最初は断ったんだぜ、オレも。けど相手がオレらのことを受け入れないなら結婚しないとか言い出して、オレたちを理由にすんなよって……まあ喧嘩になって」
「けんか? 涼介さんと啓介さんがですか? 信じらんねー!」
「何つーの? 政略結婚? とかさ、アニキの本意じゃねー相手だとして百歩譲ってもどうかと思うのに、どうもそうじゃないみたいだしさ」
「啓介さんは反対じゃないんですね。涼介さんの結婚とか全力で阻止しそうなのに」
「それは相手による。金目当てとか、オレに色目使ってくるような女なら容赦しねー」
啓介のまとう空気が一瞬凍りつくが、取り繕うような笑顔を見せた。
「アニキのこと大事にしてくれるんならいいんだよ。オレらみたいな仕事してて言うのもなんだけど、ある日突然アニキを残して逝かないようなさ、そういう人がいい」
そう言ってうつむく啓介の頬に手を添え、かすかに潤んだ目元を撫でた。啓介は顔を隠したままだったが、何も言わずに目の前の体をぎゅっと抱きしめる。
背中に回った手は少し震えているようにも感じたが、拓海はただじっと啓介を抱きしめていた。しばらく大人しくしていた啓介だったが、ふいにもぞもぞと体勢を変え始め、拓海は腕の力を緩めて好きなようにさせてやった。
覗いた顔は目元が少し赤くなっていて、いつもの過剰ともいえるほどの自信家な啓介とのギャップに胸がキュンとした。
「大丈夫ですよ、涼介さんが選んだ人ならきっと」
「そうかもしんねーけど」
「でしゃばるようなこと本当はあんまりしたくないけど、付き合いますよ」
「本当か?」
「しゃべったりとかは、任せます」
「分かった」
力強く頷く啓介に、拓海は安堵した。ほっとしたせいか気が緩んで、思わず口角を上げていた。
「つまんなかったらさっさと帰ってデートしようぜ」
「いいんですか、そんなこと言って」
「いいんだって。ほとんど藤原に会いに帰ってきてるようなもんだし。かかとを3回、お家が一番ってな」
「移動に半日ですけどね」
「それを言うな」
笑い合ってじゃれ合って、久しぶりの時間を楽しむ。
ラフに下ろされた啓介の前髪を指で梳くと、その手を取られて指先が絡んだ。
「アニキの相手がどんな人か知らねーけど、たぶんオレのが見る目ある」
「なんスか、それ」
「藤原を選んだ」
「────。か、買い被りすぎです」
啓介の言葉をやっと脳が理解して、たちまちに体中の血が顔に集まってくる。どうしてこう臆面もなくそんなことが言えるのだろうか。言われた拓海のほうが逆に照れてしまい、勢いよく枕に突っ伏した。
そんな拓海を追って啓介が背中に覆いかぶさってくる。
「プロジェクトDが終わって離れることになるって分かってても手放す気なんかなかったけどな」
鼓膜に注がれる熱い吐息につま先まで痺れた。
拓海は枕に顔を押し付けて逃げようとするが、啓介はそれに構わず言葉をつないでくる。
「今はまだ夢も目標も捨てられねえから我慢してるけど、本当は毎日でもこうしたいって思ってる」
「け、啓介さ、もうそれ以上は」
「飛行機で半日の距離がもどかしいぜ」
もうわかったからと、拓海は仰向けになって啓介の口を両手で塞いだ。
ここまで想ってくれるのは恋人としてこの上なく幸せだが、これ以上は心臓がもたない。物理的でもいいから何とか啓介の睦言を止めたかった。だが啓介は拓海の手を掴んで顔の両脇に押さえつけた。
暗がりでもはっきりと分かるほどまっすぐに見つめられ、生唾を飲みこむ。
「すげー好き」
ああ、ほら。もう心臓が壊れそうだ。拓海は解放された手を啓介の背中へと伸ばした。
いつの間に眠っていたのか、携帯のアラームが枕元で鳴り響いていた。カーテンの隙間から眩しいほどの朝日が差し込んでいる。豆腐の配達をしていたころに比べて朝はずいぶんゆっくりと眠れるようになった今の生活は案外悪くない。
隣へ手を伸ばして啓介を起こそうとしたが、空振りに終わった。とんでもない寝相で部屋の端まで行ってしまったのかと顔を上げても、人影がなかった。そこにいたはずの啓介はおらず、布団も冷やりとしている。
「……あれ?」
二人で夜を過ごして、朝に顔を見ないということはこれまでに一度も経験がなかった。大きなビーズのクッションにも、バスルームにもいない。
玄関に行くと啓介の靴がなくなっている。あるのは拓海のシンプルなグレーのスニーカーだけだ。突然いなくなった理由も分からず、拓海は力なくクッションに座り込んだ。メールや電話はおろか、書置きのメモすらない。
いつもと同じ静かな部屋なのに、昨日よりもずっと独りを感じる。拓海は寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、重怠い腰をさすりながら洗面所に移動した。
鏡の中の自分はまるで雨に濡れた捨て犬のような顔をしていたが、鎖骨の辺りに残る情事の跡が、生々しかった。歯を磨き、顔を洗い終えたところで玄関の扉が開く音がした。
「あ、もう起きてたのかよ藤原」
爽やかな笑顔を振りまきながら、啓介は拓海に軽くキスをした。
「……帰ったのかと思いました」
唇をとがらせてそうぼやくと、啓介は持っていたスーパーの袋を置き、拓海を抱き寄せた。
「起きるまでには帰ってくるつもりだったんだぜ」
顔中にキスを散らし、帰りにちょっと道に迷ったのだと言いにくそうに白状した。初めて来た場所なのだからそれは仕方のないことかもしれない。
だが、それならなおさら
「起こしてくれればよかったのに」
そう思わずにいられない。腕の中でむくれたままでいると、啓介は困ったように笑って拓海を力いっぱい抱きしめた。
「朝飯作るから、それで勘弁してくれ」
「え?」
「食ったら出かけようぜ。明日までずっと布団の中にいたいってんならそれはそれで大歓迎だけど」
拓海は赤面したまま片手で啓介の顔を押しのけ、袋の中を漁る。
パプリカやパセリなど色とりどりの野菜と焼きたてのパンが入っていた。
「チームスタッフの中に元シェフってやつがいてさ。そいつの直伝レシピだぜ」
「へー。楽しみです」
「恋人に作る朝食ってのが何パターンもあって、覚えるの大変だったぜ。アニキなみにスパルタ」
「……ん?」
「ちゃんとランチとかディナー用もあって、それも覚えろって言われてさ。今度作ってやるよ」
「ちょ、啓介さん、今のって」
「ん? 何か変なこと言ったか?」
「その、チームの人に言ってるんですか?」
「うん」
当たり前だろ? まさにそう言わんばかりの顔をした啓介はテキパキと準備を始める。拓海はそれ以上何も言えず、その様子を眺めていた。
「相手がおまえっつーか男って知ってるのは本当にごく一部だけどな」
じわじわと耳朶が熱くなる。名前は出されていないとはいえ自分の存在を公言されていることが嬉しいと感じるなんて、昔の自分では考えられなかった。
表情が緩んでくるのが自分でもわかって、拓海は思わず啓介に背中を向けた。
「藤原?」
手を止めた啓介が背後から拓海を覗き込み、それを避けるようにさらに顔をそらす。
結局一周回って向かい合う形になると、啓介は満面の笑みを浮かべていた。
「何だよ、何照れてんだ?」
「別に」
「うそつけ。顔ニヤけてるぜ」
そう指摘され、反射的に両手で顔を隠した。
いつまで経ってもこの人には敵わないなと思いながら、でもそれがいつの間にか悔しくはなくなってきた。少し先を走る啓介を追いかけることがまるで人生の一部になったかのような感覚で、そんな日々が楽しいと思える。
「おまえがいいって言うならいつか表彰台のてっぺんから名前叫ぶんだけど」
「さすがにだめです」
即座に否定する拓海に、啓介は大らかに笑った。
「分かってるって。あ、すぐできるからさ、藤原はコーヒー淹れてくれよ」
「わかりました」
狭いキッチンに並んで、小さなテーブルで食事をとって、話をしながら笑い合う。そんな何気ない時間が無性に幸せだった。
「今日は天気いいなー。藤原、どこ行きたい?」
「えっと、啓介さんの布団買いに行こうと思うんですけど」
「なんで?」
「え? だってそのほうがゆっくり寝られるでしょ」
「でも一人の時は邪魔だろ」
「それは別に、押入れにもスペースまだあるし」
「いや、いらねー」
拗ねたような表情になった啓介が、なぜだか微笑ましく思えた。
「そんなにオレと一緒に寝たいんですか」
軽口のように言ってみたら、啓介は少し赤い顔で、「悪いかよ」と呟いた。拓海は自分で言っておきながら、啓介の返答に照れくささを隠せなかった。
「わ、わるくないです」
どこを見るでもなく、それだけ答えて指先で頬を掻く。ちらりと見上げれば目が合って、互いに照れ笑いを浮かべる。
「っと…じゃあどこか適当に、峠にでも行ってみますか」
「そうだな」
拓海は一呼吸置き、アイスコーヒーを飲んだ。
「啓介さんの作る飯、また食べたいです」
「うん、いつでも」
「いつか啓介さんちに行ったらその時はオレが作ります」
「楽しみにしてる」
重ねられた手のひらからじわりと体温が伝わる。ゆっくりと唇が触れ、静かに離れていった。
「絶対来いよな」
「はい」
どちらからともなくキスをして、気が付けば押し倒されていた。
「……出かけるんじゃないんですか?」
「昼間からヤマに行く走り屋はいねーし、布団が一組でいいってきっちり証明しとかねーとな」
啓介の言葉に、拓海は声を出して笑った。こんな爛れた、そして楽しい休日は啓介とでなければ有り得ない。啓介を見上げながら整髪料のついていない柔らかな髪を指先でかき混ぜる。
「アンタには一生敵わねー気がする」
「そりゃお互いさまだろ」
くすぐるように囁いて唇を重ね、指先を絡めた。
2017-11-17
スターダストの余談で書き始めたお話でした。 back