その先へ

 願掛けなんてガラじゃない。
 そう思いながらも、啓介はここ最近ずっと控えているものがある。煙草だ。
 もともとヤンチャ時代に悪友や先輩から勧められるまま手を出した代物で、なければないで困ることもない。
 ただ手持無沙汰なだけで。
 ただ時折口寂しいだけで。

 ルームミラーを覗けばそこに小さく映る人影に、啓介は僅かに鼓動が速くなるのを感じていた。
 気づけば視線が追っている。まさかと思うのに、どこか冷静にやっぱりそうかと分析する自分もいて、本日何度目かのため息が出そうになるのを寸でのところで堪えた。
 藤原拓海。
 二輪よりも楽しいと車に目覚めてからは寝食を忘れるほどに没頭してきた。磨き上げたテクニックに絶対の自信も持っていた。だがそのプライドをきれいに打ち砕いたのはまだ十代の若い男で、当の本人は運転なんか好きじゃないと放言した。
 そんなはずはない、おまえは運転が好きなんだと言い切った啓介に確固たる根拠などはほとんどなかったように思う。謙遜ではなく言い放った拓海の言葉を単純に信じられなかった。
 好きだから夢中になる。熱中する。高みを目指す。啓介にはそれが当然だった。改めて考えるまでもなく。だから、ありえないほどの技術を持ちながら家の手伝いだから仕方なくとぼやくように言ってのける拓海に、嫌々走ってそんな技術が身につくかよと、嫉妬にも似た感情が芽生えた。それを露ほども認めない拓海に腹が立った。そんな気持ちで走る男に負けた自分にも。
 負けたくない。ただその一心で、目の前のテールランプの残像を追いかけ続けた。想像の中でもやたらリアルに浮かび上がる光が、その先の未来を照らしているようで、行きつく先が天国か地獄かなんて構わずただ追いかけた。 気づけば感情だけが突き抜けて、それが恋なのだと自覚したときには足元の地面が崩れ落ちてひとり奈落の底に落ちていた。全幅の信頼を寄せる兄にさえ打ち明けることができていない。
 道が交わり共に走るようになった今、悪夢のような赤い残光を思い出すことは少なくなったけれど、あの頃より格段に向上している技術を目にすれば堪えがたい焦燥を感じる。 走ることだけに集中していたいのに、拓海の声が、目が、仕草が、啓介を阻んでいた。手が届きそうだと思った背中がまた遠くなっていく。
 ボンネットを閉める音を耳が拾った。拓海と、その隣にいるのは松本だ。松本が何かを告げたのだろう拓海が頷くのが見えた。そして体をこちらに向け、小走りにやってきて運転席側の窓を覗きこむように体を屈める。 珍しいことだと思いながら、啓介は窓を下げて少し身を乗り出すように右腕をかけた。
「どうした?」
 拓海は生まれつきだという眠そうな顔を少しだけ赤くしながら膝に手をついている。
「あの、このあと飯でも行きませんか」
「え?」
 思いもよらない言葉に啓介は自身の耳を疑った。動きが固まり、拓海の目を凝視してしまう。
「たまにはみんなでどうかって、涼介さんからの伝言みたいで」
「あぁ」
 落胆の色を乗せないよう注意しながら、啓介は無理やりに口角を引き上げて拓海の頬をぎゅっと掴んだ。
「紛らわしい言い方すんなよ」
「はぁ?」
 拓海は唇を尖らせると啓介の手をぺしんと叩き、体を起こした。言いましたからねと告げて踵を返すその背中を見つめながら、啓介はこんな些細なやり取りにさえ浮ついてしまう自分に歯噛みする。
「……どーすっかな」
 自嘲気味な笑みを宿した口元に手をやり、少しかさついた唇を指でなぞる。今この空間に持ち込むべき感情ではない胸の痛みは気にしないようにした。


 ハチロクに戻った時にはもう松本はいなかった。啓介さんに伝えてくれるかと穏やかな笑みを携えて依頼されれば、なぜ自分がと思わないでもないが、断るすべなど拓海は持ち合わせていない。 ただの伝言だと短い距離を歩きながら言い聞かせ、FDの車高が低いのを幸いと手のひらに浮かぶ汗をデニムの膝で拭った。 涼介から始まった伝言ゲームは史浩を伝い、松本を経て拓海と啓介に行き渡った。
「……緊張した」
 ハチロクを背に口の中でこぼす一言は、だけど心臓の高鳴りを裏付けるには十分だった。
 触れられた頬を片手で覆う。紛らわしいと受け取られる言い方をしたのは半分は敢えてだった。啓介の態度から好かれているとは思っていないが、どう反応されるかが知りたかった。 あからさまに嫌な顔をされれば諦めもつくだろうという思いもあったが、ただ驚いたような顔を見せただけの啓介の気持ちなどちっとも分らなかった。
 高橋啓介。
 思えば最初の出会いからしてよく分からない男だった。
 一度目は珍しい獲物がいると思った。知らず笑みさえこぼれた。五年間ほとんど毎日早朝の配達を繰り返していながら、好戦的な車に出会ったことは皆無だった。 闇夜に浮かび上がる鮮やかな色彩に引き寄せられ、さも追いついてみろと言わんばかりに体を震わせるその物体に見せつけるようにドリフトを披露した。バックミラーから消えてしまったことを気にも留めず峠を下った。
 二度目はガソリン満タンが目当てだった。あまり会話らしい会話をしたこともないが多少なりとも啓介を知った今では口が裂けても言えない理由だが、一度勝っているしという自信もあった。 スタート地点で初めて言葉を交わした。短いものだったがきつい眦は印象に残った。
 GT-Rが嫌いだという理由だけで早朝に待ち伏せされ、バトルを受けるのが当たり前だろうと絡んできて、車を走らせることが好きならそれだけで十分走り屋だとか、おまえは車の運転が好きなんだとか、 とにかくこちらの言い分を聞き入れず、気持ちも何もかも無視した物言いにカチンときて、だけど走り屋でもないし運転も好きじゃないと説得する言葉も義理もなかった。ただもどかしさやわだかまりだけが心の中に残っただけだった。
 峠のカリスマと呼ばれる人物との勝負に辛くも勝利し、自分を取り巻く環境が一変したが、それよりも完全勝利とも言えない白星を啓介はどう思ったのかが気になった。 なぜそれが気になったのかは今でも分からない。
 この県外遠征チームのドライバーとして誘われたときにもわざわざ早朝に秋名まで出向いてきて、来るんだろうと、まるで確信したようにかけてくれた言葉と笑顔が印象的だった。どちらかといえば厳しい表情でいることの方が多くて柔らかい笑顔というものを見たことがなかったからだ。
 もう単に追う追われるような立場ではなく、同じチームの仲間として競い合い、互いを高め合っていける唯一の存在なのだと認識したときに、拓海の中での啓介の位置づけが変わったような気がする。
 たとえ啓介の中では自分を負かしたいけ好かない奴と認識されていようとも、啓介がその目で見るのは少なくとも彼を負かした拓海だけなのだと考えれば優越感さえ覚えた。
 この感情を何と呼べばいいかは分からない。だが啓介が拓海の中で特別だという事実は揺るぎない。いつか啓介の中で自分がそのような存在になれればいいと思った。そんなことばかりを最近特に考えている。
 頬に触れた手をぎゅっと握りしめ、もたれていたハチロクから背中を離して運転席に乗り込んだ。

2021-03-18

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