約束
遠征もなく久しぶりにオフが重なった七夕の今日。いつもはあまり出向かない街へと足を延ばした。
連れて行かれるままに路面店やファッションビルに次々と入り、豪快に買い物袋を増やしていく啓介とは対照的に、拓海はTシャツ2枚を買っただけで用事が済んでしまった。
基本的に他人の買い物に付き合うことは好きではないが、啓介は付き合うことが当然のようについてまわり、もう買わないのか、とかこれはどうだあれはどうだと次々に見立ててくれる。
それはありがたいがあいにくそこまでの手持ちもなく、今は必要ではないからと断って啓介自身の買い物を優先してもらおうと足を進める。
商品の値段も見ずに躊躇いなく買い込んでいく人間を見るのは初めてで、いっそ清々しい。
散乱した部屋の様子を思い返してあの部屋のどこに収納するのだろうかと余計なお世話なことまで考えた。
その部屋の主人ですらどこに何があるのか把握していないだろう散らかり具合は、本音を言えば気になって仕方なかったけれど、だからと言って進んで掃除をするような出しゃばった真似はする気もない。
両手いっぱいに袋を提げて、そろそろ休憩するかと笑顔を向けてくる啓介に無言で頷いて答えると、同じフロアにあった喫茶店に迷いなく進んでいく。
後を追って中に入るとそこはカップルや女性グループが多い店で、大荷物を抱えた隣の男に視線が集まった。それも一向に気にせず手慣れた様子で注文し、案内されたソファ席へと腰を落ち着ける。
「あ、ここ禁煙席みたいですよ?」
「いいよ。おまえ吸わないだろ」
「え、まあ……」
「オレ、あとイッコだけ買いたいものがあるからさ、その間ちょっとだけここで時間潰しといて」
それだけ言い残し、荷物を置いてまた喧騒の中に消えていく啓介を見送る。ふと周りを見るとその背中を見送っているのは自分だけではないようで、何となく面白くない。
行く先々ですれ違うほとんどの女性が啓介を振り返って見ていたことを思い出してもやもやとした居心地の悪さがまた湧きあがってきた。
啓介を見たあとで視界に入る拓海を確認すると、連れが男というだけでほっと溜息をつかれることもあった。傍目には友達同士に映るのだ。たとえ本当の関係がそうでないとしても。
頭では理解しているのに何とも言えない焦りや苛立ちが募る。
ストローの先を潰しながら甘くし過ぎたアイスコーヒーを最後の一滴まで啜りきると、ちょうど啓介が戻ってきた。
「お待たせ」
「案外……早かったっすね」
「ん? まあ買うものは決まってたしな」
満足するまで買い込み、啓介が行ってみたい場所があると言って立ち寄った店で早めの夕食を取り、数杯のアルコールを飲んだ啓介をナビに乗せてハチロクを軽く流しながら高崎へと向かっているその道中。
「ちょ、啓介さん、危ないです」
「ワンハンドの練習になるだろ」
「だけど確実にシフトチェンジのタイミング狙ってますよね」
「んなことねえよ」
ハチロクのナビシートで啓介が退屈を紛らわすように拓海に悪戯を仕掛けている。
シフトレバーに乗せた拓海の左手の小指を摘まんだり中指と薬指の間に指を差し入れたり、とにかく落ち着いて運転させようとしない啓介に、
拓海が睨むように視線をやると途端に手を引っ込める。そしてしばらくするとまた同じように悪戯を再開する。そんなやり取りをもう何度も。
「もう、大人しくしててくださいってば」
信号待ちで止まった瞬間に先手を打って啓介の手を押さえこむと、反対に大きな手に捕まった。絡め取られた左手は啓介が引き寄せるままにその口元へと運ばれていく。
手の甲に形の良い唇が触れ、その刺激は肘から肩へと伝わって小刻みに体が震える。関節の窪みに舌が這っていくのがスローモーションのようにゆっくりと視界に流れてくる。
捕まったままの左手からチュ、と軽い音を立てて離れていく唇に釘付けになる。
「おい、青だぜ」
その言葉に弾かれたようにクラッチを踏み込むと啓介の左手がシフトレバーを操作する。拓海の左手は啓介に捕らえられたままだ。
「啓介さん、手、離してください……危ないから」
大人しく引き下がる啓介に何となくの不安を抱きながら解放された左手でシフトレバーに触れる。その手が震えているのは気付かれないだろうか。
啓介を送り届けたらそのまま帰るつもりだったが、もちろんあっさりとそれを許してくれるはずもなく広いリビングへと通された。
大量の買い物袋を床に置くとそのままキッチンへと向かい、大きな冷蔵庫を物色している。
「炭酸でいいか?」
「あ、お構いなく……もう帰りますから」
久しぶりの人混みで疲れたのか、フカフカ過ぎて今にも寝てしまいそうなソファの上で啓介を待っていると瞼が重くなってくる。
隣に座った啓介の重みで沈んだ座面が傾き、拓海の体が自然と啓介に寄りかかる格好になる。
「わ、すみません」
「さすがに疲れただろ。帰るんならちょっとだけでも寝ていけ」
離れようとする体を押さえて肩を抱く腕に力が入る。布越しに伝わる体温が思いのほか熱くて、それ以上言葉をつなげない。沈黙が拓海の眠気をさらに後押しし、数分と経たずに静かな寝息を立てていた。
「……だから眠りに落ちるの早すぎだって……」
拓海の体をソファに横たえて、胸の上に置かれた手をそっと拾い上げる。
ハチロクの中で嫌がられるほど触ってもまだ足りない。
自分と同じ、ゴツゴツと骨ばった男の手。この手がこの先に掴んでいく未来を楽しみでもあり誇らしげでもあり、それでいて憎らしい。エースの座は譲れない。でも実力は本物で認めないわけにはいかなくて。
肩を並べて対等に張り合える存在であり続けるためには慣れ合うわけにはいかないのに、芯は強いのにどこか頼りなげな印象も拭いきれない表情を見ると思う存分甘やかしてやりたくなる。
否、そいういうつもりでいて実際は自分が甘えているのかもしれない。
目が覚めるまで寝かせてやりたい思いと触れたくてたまらない衝動に挟まれて途方に暮れる。せめてもと見た目通りサラサラと手触りの良い髪に指を通して感触を楽しむ。
もう拓海の体で触れたことのない場所なんてないはずなのに、いつだって掴みどころのない空気が啓介を捕まえて離さない。
前を走っているつもりで追いかけて。食らいついて追いついて、追い抜いてもまた追いかけて。イタチゴッコを繰り返すのは自分の想像の中だけなのか、はたしてそれもまたリアルな感覚なのか。
ただ確かなのは、藤原拓海という存在そのものが啓介自身にとって自覚する以上に特別だということだけ。
「ずるいってのは分かってるんだけどな」
再び唇を寄せた拓海の指に赤い跡を残して名残惜しげに胸の上に手を戻すと、頭を撫でるように前髪を梳き上げた。
目を開けて飛び込んできたのは拓海を見下ろす啓介とその背後には天井で、頭の下にはさっき座っていたフカフカのソファではない少し硬い感触。
寝ぼけた頭も少しずつ状況を飲み込んだようで、比例して顔が赤く染まっていく。
「もう起きたのか? まだ寝ててもいいぜ」
「いえ、すみませんオレ……。もう十分です……」
いつの間にこの体勢になったのか思い出そうとしながら、啓介の膝に乗った頭を上げて赤い顔のまま隣に座り直した。恥ずかしさと気まずさにうつむいて膝の上で握った両手の拳を見ていた。
「はは、ちょっと寝癖ついてる。……拓チャン、そんな噛んだら唇切れるぞ」
ソファに片足を上げ、拓海に向かって正面に座り直すとうつむいていた顎を掬い上げた啓介の親指が下唇をなぞっていく。
頑なにきつく唇を噛んだままの拓海の目が少し潤んで、啓介を睨むように視線を合わせた。
「な、んで」
「…………」
「なんで」
何で。いつの間に。どういうつもりだ。
言葉にしたいのに、これ以上の言葉を発すると、別の場所から出したくもないものが零れ落ちそうだ。
握りしめて白くなった手に被さった大きな手が、ゆっくりと拳を解き開いていく。少しの沈黙の後、ぐっと息を詰める拓海を宥めるように慎重に言葉を選びながら啓介が口を開く。
「縛りつけるとか、奪うとかそういうんじゃねえんだけど……」
啓介が指と一緒に撫でるそれの感触と重みに、自分の手に血が巡るのを感じた。
「オレの首、見てみ」
言われるまま視線を移すと、襟元に見え隠れする自分の指にあるのと同じ形のそれを見つけた。少し照れくさそうに笑った啓介の顔を見た途端力強く抱き寄せられた。
「同じ気持ちでいろなんて言わねえ。けどオレは、この先何があってもおまえの隣を手放すつもりはねえ」
向かい合うでなく、背中合わせでなく、ただ隣に立って一緒に前を見て歩いて行きたいんだ。
言葉よりも視線よりも雄弁に語る腕の力に体中の血が沸騰するような錯覚を覚える。
ふたりの間でどくどくと脈打つ鼓動がずれたり重なったり、触れ合う場所がいつもより熱を持っていたり、近いようで遠く、遠いようで近い啓介がまた一歩、
自分の中へ踏み込んで居場所を広げたような気がする。抱き締められた体を離して、まっすぐに視線を合わせた。
「オレは……啓介さんには負けたくないって……絶対負けねえって思ってる」
「ああ。そうじゃないと張り合いねえよ」
「それで……いつも……いつでも啓介さんにとって、どんな意味でも一番でいたいって思ってる……」
そこまで言って、やはり照れくささに耐えきれずうつむいて目の前の体に抱きついた。すかさずソファに押し倒してくる啓介の乱暴で、奪いつくすようなキスに息が上がる。
「オレがおまえに勝って、おまえの全部、まるごと奪ってやるまで……ッ」
「う、んん……っ」
「誰にも絶対負けんじゃねえぞ、藤原」
ここが高橋家の一階リビングだということも、くしゃくしゃに乱された髪も構わず、体に感じる重みを受け止めて強く抱きよせる。
「ぁ……、……ン、好き……だっ」
「おまっ、……ばかやろ、もう帰さねぇからな」
目が覚めたらそこは啓介の部屋で、視界に入る乱雑な物も相変わらずで、自分を包む匂いも背中にある熱もいつもと同じで。
いつの間にこの部屋に連れてこられたのだろうかと眠い目をこすると、指の付け根にある硬い感触でぼんやりとしていた意識が覚めてくる。
暗い中でその手を眺めていると、後ろから伸びた手が重なった。肩口に唇が触れて視線の先では指先が絡む。
「そういえば今日、七夕ですね」
掠れた声に少し気恥ずかしさが浮かぶが、絡めた指先で手の甲をさすりながら呟いた言葉に少しの間を置いて言葉が返ってくる。
「何か願い事でもあんのか」
「うーん……もっと速く走れるように、とか……?」
「そりゃ目標であって願い事じゃねえ」
「あ、そうか。……じゃ、啓介さんは?」
「おまえとずっと一緒にいてえ、とか?」
耳元で囁く声に、途端に頬が赤くなる。臆面もなくこういうことが言える人なんだったと改めて感心する。
「疑問形じゃないスか……」
「いや、オレにとっちゃ願い事っていうか走ることと一緒でこれからも続いていく日常だな」
背中を向けている状態でよかった。向かい合った状態で言われていたら、いたたまれないどころか恥ずかしさで埋もれてしまえる。絡んだ指についつい力が入ってしまう。
「そうだなあ……敢えて言うなら拓海にもっと体力付きますように、かな。おまえ、オレより若いクセにすぐへばるし。もっとじっくりたっぷり楽しみたいじゃん」
「そっ……、啓介さんがタフ過ぎるんですよっ」
「おまえが可愛いから悪い」
首筋に吸い付きながら、吐息のような声で呟く。男に可愛いと言われても別に嬉しくない。なのに、体は些細な刺激にもすぐに反応してしまう。
焦らすような耳朶への愛撫に、顔を捩ってキスをせがむ。嬉しそうに微笑む啓介が軽く唇を触れさせたところで、そっと顔を引き寄せた。
「オレ……啓介さんとは肩を並べて張り合える存在でいられるように……なりたいです」
その言葉に啓介が泣きそうな顔で笑ったような気がするが、それだけ言って啓介の首筋に顔を埋めた。そうすれば後は、いつものように啓介の腕の中。
ぬくもりに包まれながら、目の前にあるシルバーの環に唇を押し当てた。
2012-07-07
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