gaze

 “その手”の視線には、敏感なはずだと思ってた。自惚れでもなかったと思う。
 勘は鈍いほうじゃないし、自分に向けられた熱いそれは決して不愉快なんかじゃなく。 むしろこちらから送る熱が伝わってくれたのか、なんて、糠喜びもいいところだ。勘違いして、舞い上がって、期待して、想像とは違う結末にショックを受けないわけがない。
 乱暴に投げ落とした煙草とライターが音を立てて床に転がるのも気にせず、ベッドへダイブする。
「なんだよ……カッコわり……」
 独り言に続いて、ため息がこぼれていく。
 うまくいく確信があったわけじゃない。だけど同じ気持ちだと思っていた。 頭の中を、この胸を占める割合がどんどん大きくなって隠しておけなくなって、留めておけなくて。手を伸ばせば届くものだと思っていた。この手を差し出せば、握り返してくれるものだとばかり。

『オレ、今は走ることに集中したいんです……だから……』

 今は誰も、オレさえもいらないと言うのか。「今」って一体いつまで。走り以外は締め出して、時間切れになるまでただ指をくわえて見てろって言うのか。おまえが。 あの眼を、あの熱を、あの視線を、嘘だとは言わせない。おまえだって気づいていたはずだ。このオレの熱を。なのに。
 これからのおまえにだって「走り」は嫌でも付いてまわるだろう。それならこの先もずっと、誰もいらないってことなのかよ。 考えたくもないけど別の誰かならすんなりとオレの望む場所に入り込めるってのか。そんなのは許さない。許せない。おまえの横に立つのは、オレでしかないはずだ。
 額の上で握りしめる手に力が入り、手のひらには爪が食い込む。
「くそっ」
 殴り甲斐のない布団に拳を埋めて、ゴロリと寝返りを打つ。行き場のない苛立ちは消化不良のように腹の奥にたまる。 誰のせいでもない。
 ただ、藤原に振られただけだ。

 藤原はきっぱりとオレを振った。拒絶したんだ。
 だからお互い走りに集中しようというおまえの言葉にも納得して、そうあるように振舞ってる。 多少のぎこちなさはあったとしても、それはそれだ。食い下がって縋りつくような情けない姿を見せるわけにはいかない。
 なのに次のプラクティスも、その次も、そして今日もしつこいくらいにあいつの視線を感じる。 振り返れば、藤原はまったくこっちを見ていないのに。これはただの願望なのかもしれない。でも背中ではあの熱を感じている。
 集中させてくれよ、頼むから。乱されている場合じゃないんだ。負けたくない、失望させられない、振り向かせたい……堂々巡りは相変わらずで、未練がましく姿を追ってしまう。 諦めようだなんて、無理なものは無理。それは自分でよく分かってる。だからこの半端な気持ちにも折り合いをつけながらやっていこうと思っているのに。おまえの熱が、それを阻むんだよ。
 なあ、本当におまえはこの状態で走りに集中できるのかよ。

 暴走しそうになる腹の中のもやもやを強い力で抑え込んでも、なかなか走りは安定しない。アニキの呆れたような視線とため息を受けたオレと藤原は否応なしに休憩へと放り出される。 他のメンバーも散り散りになって、辺りの人影も片手で足りるほどになった。駐車場の端にある自販機へと向かい、いつもと同じコーヒーのボタンを押す。
 ガードレールに腰を掛けておもむろに彷徨わせた視線が愛車に止まる。正確にはその横の見なれた人影に。
「藤原……?」
 見えるのは、藤原の背中と横顔。表情までは読み取れないが、その視線の先には黄色いFD。辺りをキョロキョロと確認して、そっとFDに近づいていく。 藤原からはオレが見えていないらしい。
「なに、してんだよ……あいつ……」
 そのままそっとフロントからルーフへ、その流線型を優しく撫でるように手を這わせて行く。 そしてFDに凭れるように顔を伏せて寄りかかる。
 言ってることと、やってることがバラバラじゃねえか。
 これ以上の隙間はないっていうのに、どこまでオレの中に踏み込んでくるつもりだ。
 もうオレを自由にしてくれよ。 毎晩夢にまで出てきて心を乱すのをやめてほしいのに、現実でもそんな揺さぶりを掛けてきやがって。おまえは自分の矛盾が分かってんのかよ?
 気配も足音も消して藤原の背後から近づいて、逃げられないように両手で囲い込んだ。弾かれたように頭を上げた藤原の背中に、ぴったりと隙間なく自分の胸を押し付ける。 逃げようともがく体を体格差を生かして封じ込めると、藤原はすぐに大人しくなった。耳やうなじが真っ赤になって小刻みに震えている。 お互いが何も口にできないまま、時間だけが過ぎていく。
 目の前の藤原はFDに縋るように顔を埋めて、両手を握りしめている。
 ちくしょう。抱きつくのなら生身のオレにしろよ。
「あ……の……放して……」
「……うそつき」
 蚊の鳴くような声で呟いた藤原を、意地の悪い顔で見遣る。 うつむいた顎を強引に引き寄せ、視線が絡まったところで触れるだけの軽いキスをした。
 いきなりでも何でも構わない。オレのことで胸も頭の中も溢れるくらいにいっぱいにしてやりたい。 これ以上はないってほどに、オレで埋もれてしまえばいいのに。
 藤原の体が一瞬強張って、次の瞬間にはもう自分が突き飛ばされる衝撃を感じた。 怒りなのか羞恥なのか、真っ赤な顔で涙目でまっすぐにオレだけを睨みつけている。
 そう、その熱だ。
 口元に浮かびそうになる笑みをこらえてその視線を受け止めた。
「何、してんスか」
「キスだろ」
「…………」
 睨み続けながら黙りこくった藤原へと足を進めて距離を詰める。FDとオレの間に閉じ込めてしまえばもう逃げられない。
「今のはおまえが悪いだろ」
 悪びれもせずに言うと、驚いたように大きな瞳が揺らめいている。目は口ほどにものを言うって知ってるか。
「そ……れは……」
 もう下手な嘘は見逃してやれない。手加減もしない。絶対に、手に入れる。だからおまえもオレを欲しがれよ。

  おまえが手を伸ばせば届く距離にいるんだぜ。

2012-02-21

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