つないだ手のさき
配達先の庭に、白や赤、黄色の花が咲いている。
どこかで何度も見た覚えのある花なのに、名前もどこで見たのかも思い出せない。
ハンコをもらう間に見惚れているのを家人に気付かれた。笑い声に振り返ると嬉しそうに目を細めている。
「それ、ブーゲンビリアっていう花よ」
「ブーゲンビリア……?」
「花言葉は情熱、とかあなたしか見えない、だったかしら」
ふふふ、と上品に笑って伝票を差し出す。帽子を脱ぎながらそれを受け取ると、はにかみだけ浮かべて会釈する。
目深にかぶり直して花壇の横を小走りに抜けていく。
鮮やかな黄色が目をつぶっていても蘇る。
全く関係がないものなのに、色が似ているというだけで思い出してしまう。こんなに動悸がするのは暑いせいだ、走っているせいだ。そう自分に言い聞かせて溜息をつく。
日が傾き始めてもまだ、残りのルートをまわりながら、形なんて全く似ていないのにすれ違う黄色い車につい反応してしまう。
あの色がいけないんだ。
強烈なインパクトを持っているのは車の色だけではない。それを自在に操る人物にこそ意識を奪われている。
恋人同士という関係になってから約半年。
ミーティングの後にファミレスで車の話や世間話に花を咲かせたり、ときには啓介の部屋で朝まで過ごしたり、遠征や仕事の合間に時間を作って、
いくつものことを同時にこなせない性分なふたりが何とか歩み寄って譲り合ってここまで来たというのにここしばらく、啓介がさりげなくも拓海と距離を置こうとしていることに気が付いてしまった。
ふたりきりになれば、たとえ嫌だと言っても聞き入れないほど頑なに触れ合おうとしていた啓介だったが、拒む拓海の言葉に、渋々だったのがあっさりと引き下がったり、
もとより触れようとしなくなっている。それでも拓海から手を伸ばせば力強く引き寄せることは止めなかったのに、それすらもはぐらかすように場を茶化すようになった。
毎日毎晩のように来ていた電話も次第に少なくなっていて、ある日からキスさえしてこなくなったところでやっとそのことに気が付いてから、理由が分からずもやもやとしたものがくすぶっている。
啓介からはバイトだ試験だ何だかんだと言い訳をされてふたりになる時間を削られ、仕事の繁忙期も重なって思うように時間が取れなくなっていた拓海は今夜のミーティング後に何が何でも啓介を捕まえようと決めていた。
「逃げ回るなんて、らしくねーんすよ……」
苦々しく呟いて、事務所へ向かう道を左折するためにハンドルを切った。
高崎のとある居酒屋で行われたミーティングという名の飲み会に遅れながらも向かった拓海は着いた早々座敷を見回し、松本の横へ腰を下ろした。
すでに何人かは出来上がっていて、エースの片割れはその酔っ払いに捕まっている。
普段は何より車に乗れなくなるのが嫌だからとあまり呑むこともない啓介だが、駐車場にFDがなかったところをみると今夜は酒を入れているらしい。
お決まりの挨拶を交わし、座った場所から啓介の様子を視界に入れながら運ばれてきたウーロン茶に口をつける。突然背後から肩を叩かれ、思わずウーロン茶を吹き出した。
「何やってんだ藤原、大丈夫か?」
松本が穏やかな笑顔のままおしぼりを渡し、それを咽ながら会釈で受け取って口元やテーブルにこぼれた液体を拭き取る。
「すいませ……ちょっとびっくりして」
「そんなに驚かせるつもりはなかったんだが、すまないな」
「い、いえ、そんなっ、オレのほうこそすみません……」
隣の松本が腰を上げて横に移動し、拓海と松本の間に入ってきたのは涼介だった。
「忙しい時期だろう、疲れていないか?」
「いえ、大丈夫です……」
「にしては、元気がないようだな」
「…………」
「啓介も、最近は辛気臭くなるほど沈んでるけど……何があった?」
顔を寄せて小声で囁く涼介の言葉に上手く答えられず、微かに頭を振ることしかできなかった。
うつむいた拓海に涼介はそれ以上の追及はせず、励ますように髪の毛をくしゃりとかき混ぜると、できることがあるなら言えよ、とだけ言って松本へと向き直った。
気まずさを残したまま半分になったウーロン茶に口をつけるとグラスの先に視線を感じ、目を上げると、酔っ払いに捕まっていたはずの啓介が拓海をじっと見ていた。
絡まった視線がほどけず、何度か瞬きを繰り返すと啓介が急に立ち上がり、どすどすと音が鳴るほど大股で歩いてあっという間に店の奥にある暖簾の影に見えなくなった。
拓海は思わず握っていたグラスをテーブルに置いて、後を追っていた。
暖簾をくぐると廊下の突き当たりに洗面台があり、その手前に、左右に分かれた個室のトイレが設置されている。
少しの間を置いて乱暴に扉が開き、啓介が出てきた。不機嫌に歪んだ顔にチクリと胸が痛む。暖簾の前で、行く手を阻むように立ち塞がって見上げると啓介が眉を寄せて呟く。
「……どけよ」
「嫌、です」
「…………」
「なんでオレのこと避けるのか説明してくれなきゃどきません」
「……ここでする話かよ」
「だったら、時間ください」
絶対逃がさない。そんな気持ちで睨み上げると正面からその視線を受け止めた啓介が、うつむきながら息を吐く。
「……分かった」
その答えに、体半分をずらして道を開ける。触れないように啓介も半身になってすれ違い、テーブルへと戻っていく。
啓介の帰還を待ちわびる酔っ払いの声が耳障りで、拳を握りしめて壁に打ちつけた。鈍い痛みも気にならないほど、頭の中がぐしゃぐしゃだ。
避けてなんていないと誤魔化されなかったのが救いだと無理やりに納得させて、重い足を引きずってテーブルに戻った。
宴のお開きを待って店を出て、ハチロクの中で啓介を待つ。
店の出入り口で涼介と言葉を交わしているのをフロントガラス越しに眺めながら重苦しい空気を飛ばすように息を吐いて、
両手で頬を張って気合いを入れる。コン、とガラスをノックした手がドアを開け、静まり返ったハチロクの中に音が生まれる。
「悪い」
「……いえ。……あの……えっ、と」
このまま車内で話すべきなのかそれとも場所を変えてもいいのか言い淀む。できればちゃんと正面から顔を見て話をしたかったが、車の中以外で邪魔が入らない場所というのはあまり思いつかない。
「アニキは松本と飲みに行くらしいから、オレの部屋でいいだろ」
差しのべられた言葉に居住まいを正して、イグニッションキーを回す。静かに走りだしたハチロクの中はカーラジオから流れる音楽だけが響いて、沈黙が覆う車内は音があるのに無音のようで息が詰まる。
部屋に行くことは許してくれるのに、こんなに近い距離にいて指一本すら触れてこない啓介に、だんだんと苛立ちが募っていく。
無言のままのふたりを乗せたハチロクは高橋家のガレージへ収まり、啓介と拓海は互いに一言も発しないまま外灯に照らされた庭を横目に玄関へと進む。
慣れた手つきで施錠を解いて広い玄関に入ると、啓介は明かりもつけないまま階段を上っていく。後を追って行くと階段の途中で足を滑らせ、咄嗟に前を歩く啓介の腰にしがみついた。
「す、いませ……」
相変わらず無言のまま振り返った啓介が拓海の手を取り、残りの段差をゆっくりと上る。久しぶりに触れた啓介の手は少しカサついていて、それでも体温の高さを伝えてくる。
手を引かれて入る啓介の部屋は以前と同じ散乱っぷりで、煙草と香水の混じった匂いも変わらない。蛍光灯の明かりに少し目を細めてうつむくと、啓介の大きな手が拓海の髪の毛をかき回す。涼介がするよりも乱暴なのに、ずっと温かい。
「……触らせてんじゃねえよ」
呟かれた言葉に顔を上げ、部屋を出ようとする啓介に抱きついて引き止めた。勢いがついた拍子に啓介の背が扉にぶつかる。
「ちょ、やめろ」
「なんでですか」
「いいから離れろって」
「絶対いやだ」
渾身の力で目の前の体を抱きしめる。いつぶりなのか、感じる体温と啓介の匂いに息が詰まる。
いつもなら背中に回されるはずの腕はずっと体の横に垂れ下がったままで、なおさらムキになって腕に力を込めていく。
「藤原……頼む。今はやべえ。おまえに無理させたくねえんだ」
肩を押し返して体を離そうとする啓介の言葉に、カッとして唇を塞いだ。
「んッ……」
いつもの拓海らしからぬ行動に、驚いたのは啓介のほうだった。あまり感情を表に出さず、どちらかというと受け身でいることの多い拓海が珍しく感情をむき出しにしている。
「は、……っ、納得できません」
一度離れた唇をまた押し付けて、今度は舌を差し入れた。逃げられないように両手で顔を押さえつけてさらに押し入ると、肩にあった啓介の手が背に下りて力強く抱きしめ返してくる。
ただそれだけで、鼻の奥がツンとする。
「頼むって、藤原。おまえのためなんだよ」
「それが理由って言いたいんですか? オレの気持ちはどうなるんですかッ」
取っ組み合いのような力任せの抱擁に、何度も啓介の体が扉にぶつかる。これ以上、1ミリも離れていたくなくて胸倉を掴んで引き寄せた。
「ぅ……っ」
「拓……」
一瞬瞠目した啓介が拓海の体を担ぎあげ、物が散乱した部屋を器用に縫い歩いてベッドへと移動する。スプリングの利いたマットに拓海を下ろしてかぶさった。
「悪かった……」
頬を伝う滴を親指で拭いながら、優しく宥めるようなキスをする。大人しくしているものの、それでも口を尖らせてぶつぶつと不満がこぼれていく。
「あんたはこのままずっと何もしないで過ごすって言うんですか? この先もずっと?」
「……おまえに無理させるよりは……いいかなって」
「普段はばかみたいに自惚れ屋で自信家でオレ様で強引で、なのに、なんでそんなとこだけ弱気になるんですか」
「そ、そういう言い方ねえだろ。こっちはものすっごいヤりてー気持ちを我慢してんのにさあ」
「そんなこと頼んでな……──啓介さん……なん、で勃ってるんですか」
「これはまあその、なんだ……気にすんな」
分かりきった反応を示す体をよそに、キスより先へは進もうとしない啓介が拓海の体をがっちりと抱きしめる。
「こんなんでよく我慢してるだなんて言えますね」
「テメー、オレの忍耐力なめんなよ? オレがどんだけおまえの泣き顔に煽られてると思ってんだバカ野郎!」
「ばっ、オレがバカならあんたはアホだ!」
「ンだとコラ!」
ベッドの上で抱き合ったままヤるヤらないで煮え切らず揉めているこの状況にますます腹が立ってくる。欲求不満だからというわけではない。
啓介が拓海をのけものにしてひとりで勝手に悩んで勝手に答えを出したことが頭に来るのだ。
「あんたがしてくれなきゃ慣れるものも慣れないのに……オレが、啓介さんとするの辛いからいやだって一度でも言ったかよ!」
「お……、だったら言わせてもらうけどな。挿れる前にじっくりほぐしてやらなきゃおまえが辛いのは目に見えてるのに、すげー嫌がるじゃねえか」
「そ、そんなん、恥ずかしいからに決まってるじゃないですかッ。 だいたい、ね……ねちっこいんですよ」
勢い任せに叫ぶ単語の卑猥さに顔が染まってくる。こんなことまで言うつもりはなかったはずなのに、売り言葉に買い言葉が続いていく。
「恥ずかしいもくそもあるか! そんくらいしないとオレがいやなんだよ。それが無理ってんならしてやらねーからな」
「ちょっと! オレがどうしてもしてほしいみたいな言い方止めてください!」
「だから怒ってんだろうが」
「違います」
「いーや違わねえ。オレが全然おまえにエロイことしなくなったからって怒ってんだ」
「だって!」
何を口走ろうとしたのか、すぐ目の前にある啓介の顔から視線を逸らせ、口を噤む。
「……だって、なんだよ」
「……何でもないです」
「言えよ。聞かせろ」
首筋に擦り寄って優しくねだるような声に、止まっていた涙がまたジワリと浮かんでくる。
こんな風に女々しく、泣き落しみたいな真似をしたいわけじゃないのに。泣き顔を見られたくなくて、顔を逸らせたまま呟くように吐き出した。
「不安、だったんです。やっぱり女の人のほうがいいって思ってるんじゃないかって」
「ンなこと……」
「分かんないすよ。啓介さん一言も打ち明けてくれねえから……」
「そう……だよな、ごめん。……オレはおまえに無理させてんじゃねえかって……正直怖くなってた」
顔を上げて額を合わせ、キスをする。目を閉じて頬を擦り寄せて啓介の耳元で囁く。
「だからって……こんな風になるの、嫌です」
「うん、ごめん」
「謝ってばっか」
息を吐くように笑った拓海の唇へ上半身を起こした啓介の人差し指が当てられると、ゆっくりと顔が下りてくる。
啄ばまれる唇や頬がじわじわと熱を持って、そのうちに聞こえてくるのは荒く吐き出される息と、空気を求めて吸い込む音と布地がこすれる音と、耳にこびりつく湿った音。
目に映るのはきれいに染められた金糸に近い茶色の髪と、長い睫毛とときどき慈しむように見つめる切れ長の瞳。
体に感じるのはひとり分の重みと、熱と、硬さ。
そんなにきつく押さえつけなくても、逃げたりしない。そう言葉にする代わりに、力いっぱい抱きしめた。
「なあ、本当にもう帰るのか? 今日は休みなんだろ?」
明るく降り注ぐ日差しの中、啓介の言葉を背に受けながら長いアプローチを歩く。広い庭にはたくさんの花が植わっている。
ふと目を惹く彩りに足を進めるとそこにあったのはブーゲンビリアで、赤や黄色の花弁が風に揺れている。
見覚えがあったのは、この庭にあったから。そのことに気付き、せっかくだから出かけようぜと言いながら玄関の鍵を閉めようとしている啓介のもとへ駆け戻って抱きついた。
「おわ!」
「……花言葉は……あなたしか見えない」
「へ?」
啓介の手から鍵を取り上げて中に入り、指を絡めて引き寄せてそっと口づけた。
「しょうがないから、もう少しいてあげます」
「……ふはっ、そーかよ」
抱きしめられて、嬉しそうに綻ぶ顔が見えなくなった。
2012-08-22
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