ほてる 2

 遠くのほうで誰かが名前を呼んでいる。
 肩を揺すって、熱い手のひらが何度も小刻みに頬をたたくのと同時に何度も名前を呼んでいる。人がせっかく気持ちよく眠っているのに邪魔をするなと一言言ってやろうと目を開けると、そこには心配そうに眉根を寄せた啓介の顔があった。
「啓介さん……? なんでそんな顔してんですか」
 常より重く感じる腕を伸ばして啓介の頬を包むと、ほっと息を吐いて拓海の体を抱きしめてくる。
「心配させんじゃねえよ、ばか」
 いつも自信満々で強気な啓介が出す、ぐすぐすと今にも泣きだしそうな情けない声に、こんな声はきっと自分しか知らないと思うと知らず笑みがこぼれた。柔らかい髪に指を差し入れ、感触を楽しむ。
「ごめんな、まさか飛んじまうとは思わなくてよ」
 拓海の顔の横に肘をつき、重なるように覆いかぶさっている啓介の表情はこの上なく曇っていて、拓海の胸をきゅうっと締めつけた。引き寄せて額に口づけ、頬や顎にも唇を寄せた。
「大丈夫、ちょっと寝ちまっただけです」
 ちゅっちゅっと軽いキスを繰り返し、最後にきゅっと引き結ばれた唇にも啄ばむようにキスをした。 大人しく拓海の口づけを受けていた啓介が安心したようにやっと笑顔を見せ、拓海もつられてまた笑った。
「なんか飲む?」
「水、お願いします」
「オッケー」
 啓介は脱ぎ捨てた浴衣を拾い上げ身にまとうと、拓海にも浴衣を投げてよこした。それを受け取りそそくさと袖を通すとまた横になった。啓介は軽やかな足取りで冷蔵庫へと向かった。
「あー、藤原、ついでにこれも買っとくか?」
「は?」
 戻ってきた啓介はファミレスのメニューのような冊子を手に持っていた。 仰向けに寝転んだままその冊子を受け取り広げると、目に飛び込んできたのはどぎつい色や生々しい形の、所謂大人のおもちゃと呼ばれるやつだ。
「興味ねえ?」
 啓介は枕元に腰を下ろし、固まった拓海の赤くなった顔を覗きこんでくる。
「いや、オレはこういうの……」
「これとかオレのより細いんじゃねぇ?」
 啓介はミネラルウォーターを飲みながらその冊子のいくつかの商品を指さしながら吟味しだした。
 正直なところ興味がないと言えば嘘になる。しかしながら啓介は完全に拓海に対して使うつもりらしいことを思えば、自ら選び出すほど積極的にはなれない話題だ。
「え、いや、えっと、啓介さん」
「あ、バイブよりアナルパールのほうがよかった?」
「啓介さん!」
 照れくささのあまり咎めるように名前を叫ぶと、啓介はポリポリと後頭部を掻きながら拓海に視線を戻した。
「……冗談だろ」
「おっさんみたいですよ……」
 せっかくの男前が台無しだと言いたげにじろりと睨んで啓介に手を差し出せば、失礼な奴だと溜息をついて持っていたペットボトルを寄越した。体を起こして喉の渇きを潤し、もう一度啓介を見やる。
「そういうの使うほうが、好きなんですか」
「へ?」
「だから、……ソレ」
 枕の横に置かれた冊子を指さしながら啓介に問いかける。不服そうに唇を尖らせる拓海の指先から辿ってそれを確認すると、啓介は噴き出して笑った。
「そうじゃねえけど、これ使えば藤原もちぃっとは楽なんじゃねえかと思ってさ」
「え……」
「今日みたいに……自分でするときとか」
 拓海に顔を寄せ、掠れた声で囁くとそのまま耳朶を食んで、首筋にも吸いついた。
「な……ッ」
 摺り寄せてくる体を押し退け、舐められた耳を押さえる。 ドクドクと心臓のリズムが速まって、体内で高まっていく熱を感じながら啓介から視線をそらせずにいると、啓介はふっと笑って拓海の隣に体を横たえた。
「ま、オレも実際使ったことねーから分かんねえけど」
 ポンポンと布団を叩いて、横になるように促してくる。使ったことがないとは意外だなんて思いながら、大人しく啓介の隣に寝ころんで天井を眺めた。
「絶対、金の無駄ですよ」
「そうか?」
「そうです。今日のオレはオレじゃないです」
「何ソレ」
 今日みたいなことは、次はいつあるか分からない。もしかして金輪際ないという可能性のほうが大きいのだ。ひとり納得するように大きく頷いて、啓介を見上げた。
「だったらどこかうまい飯とか食いに行くほうがオレは嬉しい」
 赤い顔のままそう口を尖らせる拓海を見下ろしながら、啓介はクッと喉を鳴らす。
「……なんで笑うんですか」
「いや、今日みたいな超エッチな藤原も好きだけどさ」
 拓海の体を抱き寄せ触れるだけのキスをした。
「やっぱ、そっちのほうが藤原らしいな」
 嬉しそうに笑顔を見せると拓海の体をぎゅっと抱き込んだ。
「飯でも何でも連れて行ってやるよ」
「じゃあ、うまそうなとこ探しておきます」
「おう」
 くしゃくしゃと拓海の髪をかき混ぜる啓介の胸元に擦り寄って顔を隠しながら、そっと目を閉じた。
「あ、けど、今日はオレのことをすっげえ愛しちゃってるのを証明するって言ってたよな?」
「そ、それは、えっと、なんていうかそのー……」
 しどろもどろに答える拓海の体を抱きしめたまま揺すって、シーツに押し付けると勢いよく覆いかぶさってくる。
「だから今日のはおまえじゃねーなんてのは認めねー」
 近づいてくる啓介は無邪気に笑って、その顔を間近に見ながら拓海の胸は高鳴り、体が熱くなってくる。親指で目尻を撫でられ、中指や薬指は拓海の耳をくすぐるように撫でている。 小さく震える拓海の唇に優しいキスを落とし、視線が捕らえられる。
「全部藤原で、全部オレのもん、だろ」
 拓海は歯の浮くような恥ずかしい台詞に耳まで真っ赤にしながら、啓介の浴衣の襟を引き寄せた。


「だから、連れて行ってやるって言ってるだろ」
「オレはいいですって。どうぞふたりで行ってください」
「なんでそんなこと言うんだよ?」
 飲み会の日から数週間後、プラクティスの休憩の合間に居酒屋でお流れになったサーキットの話が再燃し、啓介は拓海も連れて行くのだと説得にかかっている。 必死に詰め寄る啓介に追い込まれている拓海は背中にハチロク、眼前には不機嫌な啓介の顔、啓介の肩越しに見えるケンタの鬼のような形相という状況にげんなりした気分で深いため息をついた。
「ちょっと仕事とか……その、先の予定まで分からないから」
 ポリポリと頬を掻きながら視線をそらすと啓介の顔が唇が触れそうなほどグッと近づいた。
「ちょ、近……ッ」
「まさか遠慮してんじゃねえよな?」
「そんなんじゃないです……」
 拓海は何度も瞬きを繰り返し、肩越しに見えるケンタにも気を取られながら、まっすぐに向けられる切れ長の目を見つめた。
「……………………」
「……………………」
 無言のまま視線だけを交わし、見つめられ続けることに次第に恥ずかしくなって、拓海は思わず視線を外した。
「あ、の、その代わりっていうか」
「うん?」
 ぼそぼそと小声で呟く声も、この至近距離なら啓介にだけ届く。拓海は顔は反らせたまま視線を上げて啓介を見ると、啓介は少しだけ頬を染めて片眉を上げた。 誰に聞かれて困る話題でもないのに耳打ちするように啓介に顔を寄せて囁く。
「うまそうな店、見つけたんですよ。だから」
「分かった。んじゃ、朝までコースな」
「え、ちょっ……」
 伸ばした手は無情にも空を切って、笑顔を見せた啓介はあっという間に背中を向けて行ってしまった。ケンタは啓介の後を追うように去り、拓海はハチロクとともに一人残された。
「マジかよ」
 拓海はその場で蹲り、吹き抜ける山頂の風はずいぶん冷たいというのに、体の中に燻る熱で火照る顔を両手で覆った。

2012-10-29

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