好きだと言えたなら

 ある夏の夜、プラクティス後にファミレスに集まり今回の反省や次への課題などの軽いミーティングを終え、残ったメンバーで雑談をしている最中のことだ。向かいに座る啓介がふと、拓海に視線を止めた。
「藤原、なんか今日……」
「え?」
 だいたい聞き役でいることが多い拓海だが、実のところ今日はいつも以上に上の空だった。突然話しかけられて思わず肩を揺らし、視線だけで啓介を見上げた。
「いや気のせいか、目が潤んでねぇ?」
「そうですか? 普通ですよ」
 指先で頬を掻き、すぐにテーブルへと視線を下げた。 啓介だけでなく隣に座っていた松本も拓海の顔を覗き込むような仕草をしたため、心持ち顔を見られないようにうつむきがちにして、カップ半分ほどになったホットコーヒーを手に取る。
 眠そうだと言われる顔のおかげでごまかせているとは思うが、内心は心臓がバクバクしている。 啓介はどこか不服そうに拓海を見つめたままだが、何とかやり過ごそうとコーヒーを飲みきり、ドリンクバーのコーナーへと逃げるように席を立った。
 新しいカップをセットして、今度はほうじ茶のボタンを押す。湯気とともに液体が注がれているのをぼんやりと眺めた。
 啓介からは出会った頃からずっと、あからさまな敵対心を向けられているのは分かっていた。 走り屋としてのプライドの高さもあるのだろう、啓介とのバトルに連勝した拓海に対して友好的な態度を取られたのはプロジェクトDに誘ってくれたあの日だけだったような気がする。
 かといって普段から冷たい態度を取られているというわけではないし、ごく稀にだが笑顔を見せてくれる時もある。 啓介本人にはもしかしたらそんなつもりはないのかもしれないが、拓海が啓介を意識し始めるのには十分な意味を持っていた。何をとち狂ったのかライバルに抱いているのが恋心だなんてと自嘲するが、自分の気持ちが啓介へと向かうのを止められなかった。
 とっくに満杯になっているカップにぐずぐずと手を付けずにいると別の客がやってきた。時間つぶしはさほどできないまま、拓海はカップを手にのそのそと席へ戻る。 啓介の横を通って座席に座ると、少し眉を寄せた啓介と目が合う。ばちんと視線が音を立てるようだった。
「おまえさ、熱あるだろ」
「……ないです」
「うそつけ」
「ないですって」
 正確には測っていないだけだが、素直に認めるわけにはいかなかった。片手につかんだカップを口元へ運ぶ前に、啓介の大きな手が伸びてきた。少しだけ汗ばんだ額へとかぶさった手に、拓海は時間が止まったように固まった。 視線の先には真剣な目をした啓介がいる。大きな手が今度は首筋に降りてきて、手の甲を押し付けるようにして熱を測っているようだ。啓介の顔がみるみる渋くなっていく。
「送る」
「は?」
「おまえはもう帰って休め」
「だ、でも」
「体調悪いのに無理して遊んでたってアニキにチクるぞ」
「うっ……」
 せっかく今夜は父親不在で明日は豆腐の配達もない、プラクティス以外の普段の啓介を見られる絶好のチャンスだったというのに。だからこそ多少の体調不良は隠していつもは来られないファミレスについてきたというのに。
「啓介さん、よく気づきましたね。オレ全然気づきませんでしたよ」
 隣の松本が感心したように呟いた。気づいてやれなくて悪かったな、と続けられ、拓海は恐縮するしかない。
「さすがに峠の暗い所じゃ顔色まではわからねぇよ」
 啓介は松本に対してフォローを入れながら立ち上がり、拓海の腕をつかんだ。 熱のせいだけではない赤い顔をした拓海は立ち上がるのを渋ったが、啓介の手が背中にまで回ってきたため、立たざるをえなかった。
「ハチロクどうする? 史浩か松本に頼むか?」
「い……いえ、乗って帰ります」
 啓介の問いかけに、力なくそう答えた。
「そうか。ゆっくり休んで治してくれよ」
 史浩が心配そうに告げ、松本も中腰の状態で様子を見守っていた。拓海は二人に会釈をし、啓介に連れられて店を出た。
 広い駐車場、隣り合って停めた車の前まで来て、啓介の背中に声をかけた。
「あの、大丈夫ですから啓介さんは戻ってください」
「バカ言え。事故でもされちゃたまんねー。藤原がちゃんと家に帰るか見張ってやる」
 有無を言わさずに啓介は愛車に乗り込み、エンジンをかけた。車体を震わせ、独特の咆哮を響かせながら拓海をじっと監視している。拓海は大きくため息をついてからハチロクのコクピットに収まった。
 家についてからも啓介は遠慮なしに上り込み、拓海を狼狽させた。半ば強引に拓海を着替えさせ、ベッドへ縛り付けるように顎の下まで布団をかぶせる。 無表情の、どちらかと言えば機嫌が悪そうな啓介を布団の中から見上げ、何度かまばたきを繰り返した。
「おら、もう寝ろ」
 啓介はベッドの端に腰を下ろし、やや乱暴に熱冷ましのシートを額に貼り付けながらそう言った。
「眠くない」
「目ぇつぶったら3秒で寝れるんだろ」
「そんなわけ」
「嘘つけ、茨城の民宿じゃソッコーだったぜ」
 ごしごしと頭を撫でられ、拓海は顔から火が出そうになった。子供をあやすような仕草に内心ではムッとしながら、自分の部屋に啓介がいるという不思議な感覚に頭がふわふわとしている。 眠くないと言いながら半分閉じかけた瞼を必死にこらえ、啓介を見つめた。目が合うと、啓介は穏やかな笑みを見せた。
「寝付くまでいてやるから心配すんな」
「し、してねーし」
 顔中に血が集まるような恥ずかしさに、拓海は布団を頭までかぶった。布団の外で啓介がくすくすと笑っている気配がする。頭がくらくらするのは熱のせいだ。きっとそうだ。拓海はぎゅっと目を閉じ、耳もふさいだ。

 いつもなら気づかないような小さな物音に、拓海は目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい自分に驚き、はっとして飛び起きた。一瞬の眩暈と、ぐらつく体を支える大きな手にごくりと生唾を飲んだ。
「いきなり起きるんじゃねーよ。ビビるだろうが」
「……全然ビビってないくせに」
 余裕綽々といった笑顔を前に思わず憎まれ口がついて出る。啓介はそんな拓海を気にも留めず、額の冷却シートを片手で外した。熱を測るためだけだというのに、首筋に沿わされた手のひらに体が強張る。
「なんで分かったんですか」
「何が?」
「熱あること」
「ああ、それな」
 啓介はそれきり答えず、拓海が眠っている間に買い出しに行ったのだろうコンビニの袋を音を立てて漁った。スポーツドリンクと何種類かのゼリーにアイス、それからレトルトの粥も入っていた。
「どれが好きか分かんなかったからとりあえずあるやつ全種類買ってきた。食えそうなら食えよ」
「ありがとうございます」
「食ったら薬も飲めよ」
「……はい」
 スポーツドリンクを受け取り、渇いた喉を潤す。程よい甘さが染み渡り、体の熱を冷ましてくれるような気がした。ボトルのキャップを閉めていると啓介の手がまた額に触れた。 啓介の冷たい手のひらからほんのりと温もりが伝わり、拓海は大人しくされるがままでいた。もう少し触れていてほしいとさえ思った。トクトクと鼓動が少しずつ速くなっていく。
「寒くねーか?」
 面倒見の良いタイプだとは思っていたが、かいがいしく世話をされ、優しい言葉をかけられると都合の良い夢でも見ているのだろうかとさえ思えてくる。 体調が悪い時に優しくされるのは慣れていないせいか、急に泣きたい気分になってきた。
「迷惑かけてすみません」
「病人はそんなこと気にせず甘えていーんだよ」
「昨日、雨の中で配達回りしてて、濡れてはクーラーで冷えてって繰り返したからだと思うんですよ。いつもなら雨に濡れたくらいじゃ風邪ひかないのに、最近は冷房利きすぎてるとこ多いんで参っちゃいますよ」
 照れ隠しのごとく饒舌になってしまい、気まずさに言葉をつなげなくなった。うつむいて、ペットボトルを握りしめる。
「藤原?」
「あの、ありがとうございますいろいろ」
「何だよ急に」
「正直、啓介さんには嫌われてるのかなと思ってたから、こんなふうに世話してもらうなんて想像もしてなくて。あ、だからって別に啓介さんが冷たいとかそういう風に思ってたわけじゃなくてその」
 うまく言えないもどかしさに、手の中のペットボトルが軽く音を立てる。少なくとも嫌われてはないようだと、ただそれだけで嬉しいのだと伝えられればいいのだが、言葉が喉に引っかかる。
「……いつもより」
「え?」
「いつもの藤原よりボケッとしてたし反応も鈍くて、目元は潤んでるし顔も耳もちょっと赤かった」
「な、なんでそんなこと」
「そんなことが分かるくらいには、藤原のこと見てたんだよ、オレ」
 啓介は照れ笑いを浮かべてそう言いながら拓海の前髪をひと房指に絡めてかき上げた。その手につられるように顔を上げると薄っすらと頬を染めた啓介と目が合った。 言葉の意味を理解した途端、首まで赤くなるのが自分でもよくわかった。突然の告白に胸が苦しくなって、片手で目元を覆った。
「最初はオレの自惚れなのかと思ったよ。願望も入ってたかも。でも男同士だし、まさかなって。だけどずっと藤原のこと見てたらどうも自惚れじゃなさそうだなって気づいて、……正直戸惑った」
 その言葉に顔を上げると、啓介は困ったように笑いながら拓海の隣に座った。
「この一年はアニキのために走るって決めてたはずなのにさ、気づいたら藤原のことばっか考えてる」
 赤い頬に啓介の指が触れる。痛いくらいに心臓が跳ねている。拓海は何度かまばたきを繰り返し、すぐそばにいる啓介をじっと見つめた。いつも峠で見るきつい眼差しは面影もなく、拓海を気遣う優しい男の顔だった。
「う、嘘だ。そんなことあるわけない」
「嘘なんかつくかよ」
 そう言いながら啓介は拓海の手を握った。それだけのことで、息が苦しくなるほど胸が詰まった。 だってまさかそんなふうに見られていたなんて、想像だにしない事態だ。
「……オレだって啓介さんのこと見てたのに、そんな素振り、全然……ていうかオレ、隠してたつもりだったのにばれてるとかすげー恥ずかしいんですけど」
 ため息交じりに呟きつつも、口元が自然と弧を描く。目を閉じるとふらつく体を啓介はしっかりと抱きとめてくれる。
 本当は胸の内を打ち明ける気などなかった。ずっと心にしまって、プロジェクトDの間だけ、ライバルとして共有できる時間を大切にしていければいいと思っていた。 付き合う相手に事欠かないであろう啓介がまさか自分を、とは誰が想像するというのか。そんな空想に浸れるほどおめでたくはない拓海だが、確かに感じる啓介の体温に心が浮き立っている。
「これなら信じるか?」
「え?」
 啓介の手が後頭部に回り、唇に温かいものが触れた。時間にすれば三秒もない接触だった。拓海は何度も目をまばたかせ、ゆっくりと離れていく啓介を見つめた。
「病人に付け込むくらいには余裕ねぇんだけど」
 ばつが悪そうに白状する啓介に、拓海の胸はきゅっと締め付けられた。啓介のことを初めてかわいいと思った。 こんな顔も見せてくれるのかと、何とも言えない喜びが溢れてくる。
「風邪、うつしたらすみません」
 詫びながら拓海は自分から顔を近づけ、啓介に口づけた。自分からこんなことができるなんて驚きだ。世紀の大発見だ。 一秒にも満たない触れるだけのキスをして、思わず笑みをこぼしていた。
「ああもう!」
 啓介は拓海の両頬を包んで、至極まじめな表情を見せた。
「すげー好きだ」
「……オレが先に言いたかったのに」
「いいぜ、いくらでも聞いてやる」
 さあどうぞと言わんばかりに期待に満ちた目で見つめられると、なかなか言葉にできない。 金魚のように口をパクパクとさせながら全身の血が顔中に集まってくるような恥ずかしさに耐えかね、啓介を押しのけて布団の中に逃げ込んだ。
「あっ、おい、出てこい藤原ッ」
「今日は勘弁してください。これ以上は熱上がっちゃいますよ」
 ゆさゆさと布団ごと揺さぶられ、捲られまいと拓海は内側から布地を必死につかんだ。
「はーっ。じゃあ治ったら絶対だからな」
「エッ」
「明日までには治せよ」
「そんな」
「明日また来るからな」
 ポン、と布団越しに背中に手が触れた。立ち上がる気配を感じ、思わず飛び起きていた。少し驚いたような表情の啓介を前に拓海は口をつぐんだ。
「ん?」
「いや、その……」
 引き止める理由も、まして啓介はここにとどまる必要がないのだから、帰ってしまうのかなどと言えるはずがない。
「藤原?」
「なんでもないです」
 ベッドの脇にしゃがみ込んだ啓介が拓海を見上げる。じっと見つめられ、何かを答えなければいけないような空気に包まれてしまった。それでもやはり、何も言葉にすることができない。
「オレが帰ったら寂しい?」
「えっ、いやそういうわけじゃないけど……っ」
「けど?」
「……けど、……っ」
 言いたいことは喉の奥に引っかかっているのに、頑固にしがみついている。 これは明日になっても言えそうにない。拓海はうつむいて下唇を噛み、ぎゅっと布団を掴んだ。啓介は再びベッドに腰を下ろして、拓海のあごに指を添えた。
「病人じゃなくても甘えていーんだぜ」
 拓海は力なく頷いて、目の前の体をぎゅっと抱きしめてから再び布団にもぐりこむ。
「とにかく、今は治すことだけ考えな」
 啓介は優しい声音で囁き、額にそっと口づけた。

 朝の気配に気が付いて、ゆっくりと目を覚ます。時計を見れば午前7時を回ったところだった。配達も仕事もないこんな日はそんなに多くない。 拓海はもう少し寝ていようかとも考えたが、喉の渇きを覚えて起きることにした。体調はずいぶんと回復していた。ベッドに座ったまま伸びをして大きく呼吸する。
 啓介と思いが通じ合ったという、何とも嬉しいような恥ずかしいような、そんな夢を見た気がする。まさかなと小さく鼻で笑う。すっかり温くなった熱冷ましのシートを剥がして、洗面所へ下りて行った。 簡単に身支度を整えてから台所に移動して、冷蔵庫を開けると数種類のスポーツドリンクが入っていた。自分で買った覚えはないし、父親はこういう類のものを買うタイプではなかった。 啓介が来ていたのはどうやら現実らしいと、ぼんやりだが昨夜の記憶が蘇ってくる。ではどこまでが現実なのだろうか。おぼろげな記憶の限りでは、啓介に好きだと言われて、あげくにキスまでしている。
(欲求不満かよ、オレは……)
 気を取り直してビタミンC増量という一文が目立つ派手なラベルのボトルを手に居間へ出ると、ちゃぶ台の向こう側から長い脚が見えていた。 思わず声を上げそうになったが何とか耐えて、その長い脚の持ち主を覗き込む。
「け、けーすけさん?」
 そばにしゃがみ込んで肩を揺すると閉じられている目が少し動いて、眉間にしわが寄る。薄く開いた目が拓海を捕えた。
「あー、おはよ。よく眠れた?」
 寝起きの掠れ声で拓海を気にかけながら起き上がる啓介に、拓海は茫然としつつもやっと口を開いた。
「え、まさかここで寝たんですか?」
 客人を居間に雑魚寝させてしまった事実に血の気が引いていく。
「帰るつもりだったんだけどよ、そういや鍵かけられねえしさすがに不用心かなと思って。つーかまぁ、藤原のこと心配だったしな」
 申し訳なさそうな顔をする啓介に、何度も頭を横に振る。
「こんなとこで寝かせるなんて、オレ、本当すみませ……っ」
「オレが勝手にしたんだからそんな青い顔すんなよ。熱は……お、下がってんな」
 首筋に添えられた啓介の手に、拓海は自分の手を重ねて啓介を見つめた。柔らかな笑顔を見せられ、鼓動が速くなってくる。ごくたまにしか見たことのなかった笑顔のためか、破壊力は抜群だ。
「昨日の話、覚えてるか?」
「え?」
「治ったら、って話」
「────あ」
 啓介は夕べ、確かに拓海に気持ちを告げてくれた。それは夢でもなんでもなく、現実だった。そう理解した途端に耳が熱くなる。啓介の手を握ったまま、まばたきを繰り返す。
「い、今ですか?」
 心の準備とか雰囲気とかそういう空気とか、いろいろあるのに。そんな言い訳を頭に浮かべながら緊張を止められないでいる。期待に満ちた目で見られているから余計に言葉が出てこない。
「藤原、本当こういうの慣れてないんだな」
 啓介はくすっと笑って、拓海の頭をくしゃくしゃと撫でまわした。顔が赤くなるのが自分でもよく分かる。
「今日はその真っ赤な顔に免じて引いてやる。ぶり返してまた熱出されても困るし。言える時が来たら、遠慮なく言ってくれ」
 間近で笑う啓介に、鼓動が速くなる。 拓海は頷きついでに啓介の肩に額を預けて背中に腕を回す。甘えるようなその仕草に啓介は至極満足そうに笑っていたが、あいにく拓海には見えていなかった。

2018-11-29

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