恋と呼ぶなら

 あんぐり。
 例えるなら、そんな間の抜けた単語で。
 学校から帰ったら店の前にド派手な色のあの車。まさかと思ったけどやっぱり自分のまわりにあんな車に乗ってる知り合いなんてひとりしかいなくて。
 車から降りて人の顔を見るなりそんな顔をする人物に、ごく普通の疑問を投げかける。
「どうしたんですか、いきなり」
「おまえ、若いとは思ったけどマジで高校生だったんだな」
 ダッフルコートに隠れた学ラン姿を上から下まで見つめながら、真顔になってそんなことを言う。
「何すか、それ……。それより何か用事ですか?」
「あ、用事っつーかな、まあ……なんつーかその、ちょっと確かめたいことがあるっていうか」
 いつもは自信満々で堂々としてる風なのに珍しく言葉を濁す啓介さんに、こっそり不安を覚える。
「寒いし、とにかく中へどうぞ。茶くらい、出しますから」
「ああ……」


 学ランを脱ぎながら啓介さんを横目で見ると、ベッドに腰掛けて頬杖を突きながらオレを見ていた。
 野郎の着替えなんて見てて楽しいかよ、なんて思いつつも、何となく気恥ずかしくていつもより素早く部屋着に着替える。
「あの……もしかして新しいチームのことですか? だったらオレ……」
「いや、今日はそのことじゃねえんだ」
 慌てたように遮ったわりにはうつむいたままなかなか話をしようとしない。よっぽど言いにくいことなんだろうか。
 黙ってベッドに腰掛ける啓介さんの斜め前に腰を下ろして切り出すのを待っていると、この部屋で音楽でも流れていたら聞こえないくらいの声が耳に届いた。
「やべーんだ、オレ」
「え、ヤバいって何が……」
「藤原はさ、彼女いるのか?」
「……いないですけど」
 何でそんなこと聞かれなくちゃいけないんだ。いてもいなくても啓介さんには関係ないだろうに。
 もしかして新しいチームに入るには彼女がいたらいけないとかそういう決まりでもあるんだろうか。
 それで彼女と別れ話でもめてるとか?
 いや、まさかとは思うけど恋愛の相談に来られたわけじゃないだろうな。そういうの絶対無理だから、そうだとしたらさっさと帰ってもらわないと。
 無言の時間にぐるぐる考えていると、啓介さんが膝の上でぎゅっと拳を握ったと思ったらふいに顔を上げて近づいてくる。
「好きなやつは?」
「別に……いないです」
「気になるやつも?」
「だから、いないですって。何なんですか急に」
 仮にいたとしても、正直に言うわけないだろ。
 がっちりと掴まれた肩が痛いくらいだ。間近で見てもすげえかっこいい、なんて再発見はいらないのに。
 こんなに顔が近いからいけないんだ。オレたぶん、カッコ悪いくらい顔が赤くなってるはずだ。
「じゃあ……男に迫られたことある?」
「え? あっ、あるわけないでしょ」
 想像の斜め上を走る啓介さんの言葉に自分の顔がますます赤くなっていくのが分かる。
 啓介さんは何を言いたいんだ? そんなこと聞いて、何になるんだよ?
「まさか啓介さん……、誰かに迫られたんですか?」
 だからってオレに相談しようとしてるのかな。そんなの無理だ、オレの手には負えないんだって。
「あほか、んなわけねえだろ」
「とりあえず離れてくださいよ、近いです」
「なあ、この距離……気持ち悪い?」
「──……気持ち悪く、は……ないです」
「オレもだ……おかしいよな。男にこんな顔近付けてさ、キモくなるのが普通だと思うんだよ」
「そ、そうですね……。じゃあ、オレもおかしいんですかね」
 慰めにもならない言葉を足して、オレは一体どうしたいんだ。
 だけどそうなんだ、確かに男にこんなにも顔を近付けられてるのに気持ち悪いとかそういう感情はない。ただ、無性に恥ずかしい。 なるべく見ないようにしていたその顔を正面から見てしまって、心臓が大きく跳ねあがった。 慌てて目を逸らしたら、啓介さんが動く気配がした途端距離がぐっと近くなって、気付けば抱きしめられたりしている。
 何で大人しくされるがままなんだよ、オレ。
「だから、協力してくれ、頼む」
「な、何をですか」
「キスくらいはしたことあるよな?」
「は、何言って……ていうかまさか確かめたいことって……」
「藤原、初めてじゃないって言ってくれ。そうすりゃちょっとは罪悪感が薄まる」
「え? いや、えっと何でオレ? こういうのは……あ、ほら中村さんでしたっけ? あの人とかに……」
「ふざけんなよテメ、ケンタとなんかできるわけねえだろ」
 だったらなんでオレも無理だって考えにならないんだよ。だから、近いって。もう本当、あと数センチ。動けないよ、そんなに近づかれたら。 そんなにきつく抱きしめられたら動けない。唇に啓介さんの息がかかってる。
「なあ、言えって。藤原とじゃなきゃ意味ねえんだ」
 どっから出てんの、何でそんな声が出せるんだよ。初めて聞く声に、背筋がゾワっとした。もう目を開けていられない。
「ぁ、る……っ」

 オレは目を瞑っていたから。今、自分がどんな状況か正確には把握できていない。
 後頭部に大きくて熱いものが触れてる気がする。たぶん啓介さんの手。 トレーナー越しに腰を支えられてる気がする。たぶんこれも啓介さんの手。唇に何か当たってる。考えたくないけど、たぶん……いや間違いなく啓介さんの。
 目を瞑ってるから、分からない。
 ガチガチに固まった体を、ギュッと閉じた目と口を、唇に当たってる何かがソロソロと動いて開こうとしている。離れたいのに、啓介さんの手が放してくれない。 湿った何かが唇を優しくなぞって、ビクついて開いたそこからゆっくりとオレの中に入ってくる。自分の体なのに、自分の体じゃないみたいにふわふわとしている。
「……ン、けぇすけ、さ……っ」
 こんなのは知らない。こんな啓介さんは知らない。何でこんなことをされるのか分からない。何で自分の体がこんな風になるのか分からない。 止めてほしくて手を伸ばしたはずなのに、全身が震えて啓介さんのパーカーを必死で掴んでる。
 一度離れた唇が追ってきて、またゆっくり重ねられて塞がれる。自分の部屋なのに、宇宙に放り出されたみたいに息もうまく継げなくて酸素が足りない。 心臓が痛いくらい跳ねて、それと同じくらいきつく抱きしめられて指一本すら動かせない。
「なんて声出すんだよ」
「し、知らな……」
 もう止めてくれと言いたいのに、唇が少し離れるたびにあの声で名前を呼び続けるから、ただただ必死に酸素を求めて、手の中にある分厚い布を握り続けるしかなかった。

 酸素が脳に届き出してやっと、いつの間にか壁際まで追い詰められてたって分かった。何も考えられなくて、近い距離から見下ろす啓介さんに視線を合わせて何でって目で聞いてみる。
「勘違いだって……気のせいだって思おうとしたんだ。でもやっぱそうじゃなかった」
 啓介さんが何を言いたいのか、やっぱり分からない。だけど、そんな苦しそうで泣きそうな顔されたら胸がぎゅうっと締め付けられるような気持ちになるんだ。
「おまえにこういうことしたいんだって、自覚しちまったんだ」
「そ、れが……確かめたかったこと、ですか」
 ひりつく喉からやっと絞り出した音がなんとか言葉になって、きっと真っ赤になってる顔は見られないように啓介さんの肩に頭を預けた。
「ああ。いきなりでおまえは戸惑うだろうと思ったけど、ひとりで悶々と悩んでるのがなんか悔しくて頭に来て……ここに来ちまった」
 勝手だ。なんて勝手なんだ、啓介さん。腕の中に閉じ込めるみたいに抱きしめるなよ。
 「蹴り飛ばされるくらいの覚悟はあったんだけど、あんま嫌がらねえし逃げないし……ちょっとくらい希望持ったっていいんだよな」
 抵抗する間なんてほとんど与えてくれなかったじゃないか。 ふざんけんなって一発くらい本気のパンチお見舞いしてやらないとやられっぱなしなんて自分が情けねえよ。
「ずるい……っす」
 嫌じゃないんだ。気持ち悪いなんて思わない。だけどこうしてほしいなんてことも、思ってない。
「気の済むまで殴ってくれてもいい。けどおまえを諦めるって選択肢はなくなっちまった」
「殴ったりしません……でもこういうの、止めてください」
「順番逆かもしれねえけど……おまえが好きだ、藤原。だから、それは約束はできない」
「す、好き……だったら何してもいいって言いたいんですか」
「うっ、そうじゃねえ。けど」
「だったら、オレだって」
 何でこんなことを言ったのか分からない。何で自分の体がこんな風になるのか分からない。自分の気持ちなのに、自分のものじゃないみたいに頭の中と心の中で暴れ回ってる。 ことごとく、オレの人生が動く節目に大きなきっかけを与える人なんだ。もう、そういう嵐みたいな人なんだってどこかで理解していたのかもしれない。
「啓介さんのこと、……好きにしたっていいんですよね」

 あんぐり。
 例えるなら、そんな間の抜けた単語で。
 目を閉じる前に見たそんな啓介さんの顔も嫌いじゃないなんて、やっぱりオレもどこかおかしいのかもしれない。

2012-07-05

back