もっと、ずっと
恋人ってつまり相思相愛ってことだよな。
オレと藤原ってそう呼べる関係のはずだよな。
もうどれくらい顔も見てないのか。
会えない日を数えるのも嫌になって、オレは日も高いうちから布団にもぐりこんだ。
年下のあいつに情けないくらい夢中になって、時間かけて口説いたり、気を引きたくて必死になるのなんかも初めての経験だった。
ぎゅっと目を閉じて浮かんでくる藤原の顔は笑顔だったり怒り顔だったりよく見るぼけーっとしてる顔だったり、時々びっくりするくらい色っぽかったり。表情が少ないようで、意外と喜怒哀楽ははっきりしている。
とは言え数々の努力が実を結びやっと報われて付き合い始めてからも、気持ちを素直に伝えてくれたりってことがほとんどないせいか、温度差を感じないわけがなくて試すようなことまでしちまったり、それで喧嘩もしょっちゅうだ。
こんなに思い通りにいかない相手は藤原が初めてで、いつだって振り回されてる感じだ。今までの自分では考えられないくらいカッコ悪い。だけど藤原が相手ならそうなってもいいってくらい、オレはあいつのこと想ってる。
はっきり言って、ベタ惚れだ。
だから同じくらいの気持ちじゃなくても、最初から恋愛感情じゃなかったとしても、男と付き合うなんて大冒険してくれるくらいには藤原だってオレのこと想ってくれてると思ってた。
嫌々とか渋々とか、そういう類の物じゃないってことは信じてる。だけどあと一歩足りないっていうか、ボタンを掛け違えているようなそんな違和感を拭えない。
へこんでるときってロクなこと思いつかないしむしろ悪い方向にしか頭が働かない。なのに考えないようにしようとすればするほど藤原のことばっかり浮かんできて、それこそ頭の中は藤原で埋め尽くされている。
会いたい。キスしたい。セックスしたい。顔を見れば触れたいし、触れてしまえばキスだけじゃ止まらない。今ならたとえ人前でだって押し倒してしまいそうだ。
それだけってわけじゃないけど、一緒にいられるならセックスなしでもいいなんて生ぬるいことは絶対言えない。カラダもキモチも全部ひっくるめて藤原だから、丸ごと全部、あいつが欲しい。
会ってもらえない理由は分かってる。
オレはあの時の自分が間違っているとは思わないけど、藤原にとっては違ったってだけの話で、冷静になってみれば藤原の気持ちも理解できないわけじゃない。
だけどあんな状況になってもオレとの仲を続けるところまでの気持ちがあいつにはないっていうのが納得できない。
自分の思考に打ちのめされながら、それでも考えずにはいられない。
あんなこと、しなきゃよかったってことなのか?
「藤原の部屋ですんの久しぶりだな」
「あ、……っ、もう啓介さ……ッ」
「すげ、おまえがその気になってるってだけでたまんねえ」
「う、うるさいっ」
裸に剥いた藤原の脇腹を指先で辿って、可愛くない言葉を紡ぐ唇を塞いだ。熱く濡れた舌の感触もシャツ越しに感じる手のひらの温度も、そのすべてがオレを煽る。
吐き出す息さえ欲しくなる。
焦らすつもりはなくてもキスに夢中になっちまうオレに、藤原が不満気な視線をよこした。不機嫌に突き出る唇を舌でつつきながら肌を撫でまわす。
じわじわと赤く染まっていく肌とか上昇する体温とか、少しだけ潤む目元とか、目で見て、肌で感じて、心の中まで全部オレのものにしたくなる。
「なぁ、優しくできねえかも」
「そういうのいいから、もう……早く、ッ」
ほんのちょっと諌めてもらおうなんて下心があったけど、逆効果だった。普段理性で押し込めてるせいか、その気になった藤原はオレの理性なんか簡単に吹き飛ばしちまう。
そんな風に普段からもっとオレを欲しがればいいのに。箍を外してくれたっていいのに。そう思いつつも、それができない藤原が次第に我慢できなくなって理性をかなぐり捨ててオレに感情をぶつけてくるのを見てるのは楽しい。
オレしか知らない藤原をもっと見たくなっちまう。
「啓介さん……ッ」
「なぁ、もっと名前呼んで」
藤原がオレを求めてる。ただそれだけで、今この瞬間、世界にオレと藤原しか存在してないような恍惚感。
貪るようなキスをしながらシャツのボタンを片手で外す。興奮しすぎて指がうまく動かない。
もたついちまってもどかしくて、こんな時に限ってシャツなんか着ている自分を恨めしく思いながら体を起こし、引きちぎる勢いで脱ぎ捨てた。そんなオレを潤んだ目で見る藤原が喉を鳴らして、ますます余裕がなくなってくる。
藤原は手のひらや唇や、皮膚の全部でオレの体に触れ、うっとりした顔で見上げてくる。最初はゆっくり蕩けるキスで、なんて考える間もなく今すぐ藤原が欲しくてたまらない。
もうキスだけでイッちまいそうなくらい張りつめてきた。誘われるまま覆いかぶさり、反応し始めている藤原のソコに手を伸ばした。
「この野郎、拓海! さっきから呼んでるだろうがッ。いるなら返事しやがれッ」
襖の開く小気味いい音とともに怒号が飛び込んできて、オレは藤原に馬乗りになったまま固まってしまった。素っ裸の藤原もオレの下で硬直している。
部屋の入口に視線をやると、声の主、藤原のオヤジさんは前髪をかき上げた格好のまま固まってオレ達を見下ろしていた。
「お、やじ……」
蚊の鳴くような声で藤原が言った。手の中のモノはしゅんとうなだれて、さっきまでの熱なんか微塵も感じさせない。オヤジさんはいまだ固まったままだ。
そりゃそうか。
息子が男とデキててよろしくやってる最中だもんな。さすがにこの状況は極まりが悪いけど、挨拶くらいしとかねえとだよな。
オレは顔面一発くらいは覚悟して、恐る恐る口を開いた。
「これはちょっとふざけてただけで!」
赤くて青い顔の藤原に話の口火を吹き消されただけじゃなく体まで突き飛ばされて、オレはベッドの上で尻もちをついた。藤原はあわてふためき、服を着ながら空しい弁解を始めている。
オレのことなんか存在しないみたいにシカトしたままで、思わず藤原の腕をつかんでいた。
「なんでだよ。本当のこと言えばいいだろ」
「ちょ、あんたがしゃべるとややこしいんで黙っててくださいよ」
「おまえそれ本気で言ってんのか? こんなとこ見られて、ごまかせるとでも思ってんの?」
「ごまかすってなんだよ」
「だからオレとおまえが」
「もう、いいからその口閉じててくださいよッ」
ぎゃあぎゃあ言い合ってたら、オヤジさんが頭を押さえたままで黙って部屋を出て行った。
オレは焦ってシャツを拾い上げ、後を追いかけようと藤原に背を向けたら信じられないくらいの力で引き留められた。
「何やってるんですか!」
「息子さんをくださいって言ってくる」
間髪入れずにそう答えたら、藤原が激怒した。
「ふざけんな!」
半端に羽織っただけのシャツの胸倉をつかまれ、オレに殴りかかってくる勢いだ。負けじと応戦して狭い部屋で暴れ回っていたら、振り回していた藤原の拳がクリーンヒットして目の前に火花が飛んだ。
「あっ」
「……ってぇ」
さすがに構えてないところに一発喰らうと狼狽える。藤原は本気で殴るつもりはなかったのか不安そうにオレの顔を覗いてくるが、大丈夫だと手で合図しながら距離を取った。
少しだけ冷静さを取り戻した藤原がバツが悪そうに口を開く。
「あの……、でも啓介さんが」
「何で隠そうとするんだよ」
「そりゃそうでしょう」
「……オレのこと親に恋人って紹介できないか?」
「でっ、できるわけないじゃないですか」
頬の痛みより、即答されたことに胸が痛んだ。
「あんなとこ見られても?」
悔し紛れのオレの一言に、藤原がぐっと唇を噛む。
「オレならアニキに隠したりしねー」
「な、やめてくださいっ。……オレ、は、……オレは啓介さんとは違うんです」
「わかった。もういい」
「いいって、何がですか」
「おまえはその程度の気持ちってことだろ」
吐き捨てるように言ったオレの言葉に、藤原は今度こそ意志をもってオレを殴った。痛みを堪えて藤原を睨みつければ、拳を震わせ、肩で大きく息をしている。
「あんたに何が分かるんだ! 帰れよ、もう!」
二度と会いたくないと投げつけられた枕を足元に叩き落として、結局オヤジさんにも会わずに藤原の家を飛び出した。
そこまで思い返して、オレは寝返りを打った。
いつもの、ただの喧嘩だと思ってた。だけどあれから2週間、電話はおろかメールにすら返事がない。発信履歴なんか藤原の名前しかないってのに、一向に連絡がない。
二度と会いたくないって本気だったのか。まさか本当にあのまま終わらせるつもりなのか。こうもなしのつぶてだとさすがにそんな不安が頭をよぎる。
「声ぐらい聞かせろよあの野郎」
ポケットの中で沈黙を守る携帯電話すら憎たらしい。
ベッドを殴りつけても虚しく音が吸いこまれていくだけだった。窓の外で嘲笑うようにカラスが鳴いて、その声が遠ざかって行った。
オレが大人げなかったってことなのか?
鳴らない電話。藤原の匂いがしないベッド。静まり返った寒い部屋。現状のなにもかもにたまりかね、FDのキーをつかんで藤原の家へ向かった。
オレの出端をくじくのは藤原の得意技と言っていい。
意を決してここまで来たものの当の本人はいなくて、いたのはオヤジさんだけだった。店先で新聞を読んでいたオヤジさんは煙草の煙を吐き出しながら、「あんたか」と呟くように言って中へと入って行ってしまった。
ドアは開いたままで、まるでついてこいと言われているような気がした。オレは気合を入れるように深呼吸してからオヤジさんの後に続いた。
出された座布団の横に正座して、オヤジさんと向き合う。
「あのオレ、高橋啓介っていいます。先日はちゃんと挨拶もしなくてすみませんでした」
「……あぁ」
藤原をさらに無愛想にしたような感じで、威圧感があるわけじゃないけど何となく会話を続けづらい。
所々傷んだ畳や日に焼けたカーテン、破れた穴を塞いだような跡がある襖。
うつむきがちに、オレはこっそりと部屋の中とオヤジさんを観察していた。
今まで数えるくらいしかここに来たことなかったし、ほぼ藤原の部屋に直行だったからちゃんと見たのは初めてな気がする。
藤原が育った家。藤原の原点。ここが藤原の全部が詰まった場所。
あの藤原を、この人が育てたんだ。そう思ったら、オヤジさんを前に、何か無性にこみ上げるものがあった。親一人子一人ってことは、藤原にとってのオヤジさんは、オレにとってはアニキみたいな存在ってことだろ。
オレはアニキにだけは藤原とのこと認めてもらいたいと思ってる。藤原にしてみればオレと付き合ってるなんて胸張って言えることじゃないのかもしれない。
そう考えるのは正直辛いけど、でもあの藤原の反応はやっぱりそういうことなんだろう。だけど後ろめたい気持ちなんかオレには微塵もない。オヤジさんに隠したりごまかしたりしたくない。認めてほしいと強く思う。
「オレ、アニキがいるんです。正直親より尊敬してるし、アニキに育ててもらったようなもんで、走ることも全部アニキに教わりました」
オヤジさんは開いてるんだか閉じてるんだか分からない目をピクリと動かし、だけど何も言わず黙ったままだ。
「そのおかげであいつと出会えたんです」
峠を走り始めてすぐにチームで二番目にのし上がった。アニキの次に速くなったつもりで、だけど秋名の峠で型遅れの旧車にあっさり抜かれたあげく、リベンジだと意気込んだバトルにも負けた。幽霊でも見たのかなんて現実逃避までした。
オレが負けるはずがないって、お山の大将になっていたって認めたくなかったからだ。
遠ざかっていくテールランプの残像は今でも目の裏に焼き付いて離れない。
あの悔しさは、藤原には絶対に負けたくないって気持ちは、プロジェクトDで一緒に走るようになった今でもオレの支えになっている。これから先も、きっとそうだ。
「だから、あいつがいなかったら今のオレはないんです」
藤原にも言ったことがないようなことまで何でオヤジさんに暴露してんだろうって思いながら、だけど言わなきゃいけない気がしてた。
「あいつの望む付き合いしてやれてるのかは正直分からないですけど、オレはあいつを選んでよかったと思ってるし、これからもずっと隣で走り続けたいんです。それがオレの幸せで……だから、一緒にいさせてください」
畳に額を擦りつけながらオヤジさんの反応を待つが、何も言わずそっぽを向いたまんまだ。ここで引けないと思いつつも手のひらに変な汗がにじむのを感じる。
「なんでいるんですか」
重苦しい沈黙を破ったのは冷たい声だった。振り返って部屋の入り口を見ると眉間に皺を寄せた藤原がいた。
「なんで、ってそりゃ電話もメールも返事ないし、こうする以外にないじゃんかよ」
「話したくないって言わなきゃわかりませんか」
「本当にあれで終わらせたつもりか? おまえにとってオレってその程度の存在なわけ?」
立ち上がって藤原の肩をつかむと、視線を合わせることもなくその手を払われた。あからさまな拒絶に拳を握りしめ、奥歯を噛みしめる。
「あんな終わり方認めねえぞ。藤原のこと好きだって気持ちは変わってねーからな」
「どうだか」
鼻で笑うように吐き捨てられ、頭に血が上った。
「なら嫌いになったってはっきり言えよ。顔も見たくねえって、オレの目ぇ見てちゃんと言ってみろ!」
そんな気持ちはかけらもないが売り言葉に買い言葉。ほとんどヤケだった。
「だから、オレはもうあんたとは終……うわっ」
目の前から藤原が消えた。
正確には、オレから引きはがされた藤原がオヤジさんにぶん殴られて、隣の部屋に吹っ飛んだ。慌てて部屋の入口に駆け寄ると、仏壇に供えられてる花が揺れていた。
「何すんだよクソおやじ!」
藤原は起き上がるとオヤジさんめがけて拳を振り上げたが、カウンターを食らって拳がまた頬にめり込んだ。
どれだけの修羅場をくぐってきたのか想像に難くないほど、傍から見ても分かるほどの重いパンチだ。藤原の口の端から血が滴って畳を汚した。鼻血まで出しながらそれでも立ち上がってオヤジさんに向かっていく。
敵うはずがねえ。
「ッ、もうやめとけ、藤原!」
離せと暴れる藤原を体全部で押さえにかかるオレの背後から、殺気のようなものがびりびりと伝わってくる。
「親に知られて付き合いやめるとか、何発殴られてもしかたねぇだろ。そんなチャラチャラした付き合いするようなやつはオレの息子じゃねぇ!」
その殺気だけで殺しかねない激怒に度肝を抜かれ、オレと藤原は呆然とする。
オヤジさんは一息ついてからちゃぶ台の前に腰を下ろした。そしてオレ達を顎でしゃくって目の前に座らせると煙草に火を点け、ぽつぽつと話をし始めた。
「オレはな、母ちゃんと約束したんだよ。誰に何を言われようと1人の女をとことん愛し抜き、相手を幸せにして、自分も幸せになるような男に育てるってな。それが何だ。親にまずいとこ見られただけで別れるだ?」
情けねえ。苦々しげに呟きながらも話を続けた。
オヤジさんは親戚中から反対された嫁をさらって来たらしい。
「母ちゃんはな、こんなショボい男相手に、最期まで幸せだ幸せだって言ってたよ。オレには過ぎるくらい、いい女だった」
お袋さんとの思い出を聞いて、藤原の顔色が変わる。
「それに引き替え、おまえはコソコソ逃げ回ってるだって? だったら潔く身を引いてやったらどうだ。この兄ちゃんに似合いのお嬢さんなんか山ほどいるだろう」
「待ってください、オレは藤原とじゃなきゃ」
「オレだって!」
同時に言葉を発して、オレは慌てて口を噤んで藤原の台詞をじっと待った。それを察したのか、藤原は気まずげに首を振り、相当ためらって言葉を絞り出す。
「本気で別れる気なんか、その、なかったんだ。ただ、実の親にあんなとこ見られるのだけはヤバいだろ。おやじだって、最中に親に踏み込んでこられたらどうだよ。気まずすぎて、思ってもみない行動に出るだろうが」
「本当はオレと別れたくないって思ってるのか?」
思わず藤原の台詞に飛びついてしまった。
藤原はさんざん百面相をして、全身真っ赤で「畜生」とか「情けねぇ」とか何度も繰り返した挙句、期待に目を輝かせるオレを指差してオヤジさんに高らかに宣言する。
「女じゃねぇけど、その、一生を共にするのはこの人しかいねぇと思ってるから。悔しいけど、認めるよ。この人じゃねぇと幸せになれません」
「藤原……ッ」
あの藤原からこんな台詞を引っ張り出すなんて、さすがオヤジさん。ダテに藤原の親父やってねえ。
頭の中で天使のラッパが鳴り響く。
オヤジさんの目の前ってのも構わず喜び勇んで藤原を抱きしめるオレを慌てて引き剥がし、オヤジさんに向かって最後にひとこと。
「だから、今後は間違ってもオレの部屋に入ってくんなよ。いいな!」
しばしの沈黙と海より深いため息のあと、オヤジさんは呆れたように
「あとは勝手にやってろ、バカ息子ども」
そう言い残して出て行った。
どことなく寂しげな声に聞こえて、オヤジさんの姿が見えなくなっても、オレは深く頭を下げ続けた。
居間に残されたオレと藤原はお互いに何も言えず、ずいぶん長い間黙って正座したまんまだった。隣で小さく呻く声にハッとして、オレは藤原の手を引いて台所に向かった。
「とにかく冷やさねえと」
赤く腫れ上がった顔に氷枕を当ててやりながら、タオルも濡らして固く絞った。喧嘩のあとの手当てなんて何年振りかな、なんて遠い昔のことをほんのちょっと思い出していた。
「あのくそおやじ、思いっきりやりやがって」
そう毒づきながらも藤原の声は少しだけ嬉しそうに聞こえた。不器用なりに、オレとのことを認めてくれたオヤジさんに感謝してるってことなんだろう。
藤原親子のやり方は超バイオレンスだったけど、絆みたいなものを垣間見た気がして少しばかり妬けてくる。積み重ねた歴史が違うっていうのに、藤原の一番になりたくて仕方ない。
「あー……その、結果オーライとはいえ勝手なことして悪かったな」
「オレのほうこそ、殴った上にひどいこと言ってすみませんでした」
かいがいしく世話を焼くオレを鼻をすすりながら見上げてくる藤原は、薄っすら涙を浮かべていた。
「もうオレ嫌われたんだって思ってたから、意地もあって連絡、できなくて」
「藤原を嫌いになるとか、あるわけねえじゃん。ま、可愛くねーなって思うことはたまにはあるけどな」
笑いながら涙を拭って、ついでに鼻血のあとも拭いてやった。そしたら珍しく藤原の方から抱きついてきた。
ただこれだけのことが、何でこんなバカみたいに嬉しいんだ。
「……本当はさ、オレとのこと後悔してんのかなって、すげぇ怖くて、ちょっと自信なくしかけてた」
藤原に弱音吐くのも嫌だしカッコ悪いとこも見せたくないけど、自然とそんな言葉が零れ落ちた。
「そ、そんなわけないじゃないですか」
慌てたように体を離した藤原は一瞬だけオレの目を見て、照れたように唇を噛みしめてうつむいた。
「啓介さん走りに関してはすごい人だし、まだ自分が釣り合うような人間になれてないんじゃないかってずっと、引っかかってたんです」
「藤原」
「おやじに紹介できないのかって言われたときも正直、本気に……してなくて。でもオレの気持ちがその程度だって言ったときの啓介さんの顔見て、すげーひどいこと言ったんだって本当はずっと後悔してた」
走り限定って部分はこの際飲み込むとして。
藤原のくれる言葉一つひとつがすごく温かくて胸の中にじんわり広がっていく。
オレとのこと後悔してるんじゃなくて、むしろ逆で、そんくらい想ってくれてるってちゃんと分かってやれてなかったんだな。
違和感の正体が分かって、錆びついた歯車がやっと噛み合って廻り出したような、そんな感じ。
「前から思ってたけど、藤原ってオレに愛されてる自覚なさすぎだよな」
「だけど本当に、これからも気持ち変わらないって言えますか? わかんないですよね?」
「さぁな。あと五、六十年くらい傍にいれば分かるんじゃねえ?」
おどけたように笑いながら、顔をしかめている藤原の背中に腕を回してきつく抱きしめた。
「あんたって、本当に……っ」
「うん。マジでおまえが好きだよ、藤原」
頬にあたる髪の感触とかこの抱き心地とか、この2週間ずっと欲しかったものだ。得難く、他の誰も代わりになんてなれやしない。
「……オレだって、今のオレがあるのは啓介さんのおかげです」
「え?」
呟く声に身じろいだら、藤原がさらに強い力で抱きしめてきてそれを阻止した。視界にある藤原の耳や首筋が、おもしろいくらいに赤く染まっている。
「車の運転が好きって気づかせてくれたのは啓介さんだから」
オレは強張った体から少し力を抜いて、すぐそばにある髪をくしゃくしゃに撫でまわした。
「そのオレをここまで振り回した責任、どうとってくれんだよ」
「啓介さんが走り続ける限りオレも走るから、胸張って隣に立てるようになるまで追いかけるから、だからその……えっと、……オレもその、す、きっつーか、ずっと隣で走ってたい、っつーか、だから、つまり」
小声でちくしょうと言いながらオレの肩に頭を押し付けてくる。
だんだん分かってきたけど、こういう時の藤原は絶対にオレが喜ぶようなことを言おうとしてるんだ。理性と羞恥を押し込めて、本音が顔を覗かせる。
その瞬間を待ちわびて期待に膨らむオレの心臓の音、完璧に伝わっているはずだ。
藤原はオレの両腕を掴んで顔を上げた。緊張しすぎて睨みつけてくるみたいにしながら、まっすぐに視線を合わせてきた。
「啓介さんを、オレにください」
その瞬間はきっと時間が止まっていたに違いない。
オレは感動で何も言えなくなった。
だってこんな藤原を誰が想像できる? 照れ屋で口下手で、素直な気持ちも甘い台詞もロクに言えない男がまるで一世一代のプロポーズ。感激するなってほうが無理な話だ。
「ち、ちょっと聞いてますか、ニヤけるのやめてくださいよ」
揺さぶってくる無防備な体を抱き寄せ、そっと唇を触れ合わせた。戸惑いを前面に押し出してオレを見上げる藤原にこんな骨抜きにされるなんてチクショウ、想定外だ。
顔が緩むのを止められない。
「なあそれ、アニキにも言ってくれる?」
「え、……えぇっ?」
困惑して太い眉を寄せる顔すら愛おしい。誓いのキスが鉄の味なんて忘れたくても忘れられない。
「最期の日には幸せだって笑ってやるよ」
そう言って笑ってやれば、瞬きの瞬間に一粒だけ涙がこぼれた。
泣き笑う顔を隠すように抱きついてくる藤原を、オレは力の限り抱きしめ返した。
藤原が隣にいてくれるなら、何年先でも今よりもっとお前が好きで、今よりずっと、幸せだ。
2016年4月頃
啓拓の楽園KT FESTIVAL ONLINE に掲載していただいた作品です。 back