雨音の中で 2
それからの日々も相変わらず過ぎて行った。
ハチロクの中で見た、隣で眠る啓介の顔を思い出しては下着を汚してしまうことが何度かあった。それでも週末ごとに顔を見ることができるのは罪悪感もありつつ、嬉しくもあった。
プラクティスや課題をこなし、バトルに勝利しコースレコードを打ち立てる。涼介の描く通りにプロジェクトの快進撃は続いた。
拓海と啓介の関係はといえば、挨拶と必要最低限のやり取り以外は話をすることもなく、時には穴が開くほど睨まれたりすることはあるが、ほとんど以前と変わらない。
だがごく稀にではあるが、啓介がライバルとして以外の顔をプロジェクトの場でも拓海に対して見せるようになった。スキンシップも、わずかながら増えたような気はする。
拓海にとってはそんな小さな変化さえ幸せだった。
ようやく打ち解けはじめたと言える関係にはなったものの、啓介の恋が成就したかどうかは聞く勇気が持てず、啓介もその話題を口にすることはなかった。できる限り思考の片隅にそれを追いやり、努めて平然とふるまった。
「雨がひどくなるみてえだから、今日は上がりだってさ」
声を掛けられ、肌にあたる雨が遮られた。振り向けば残念そうな笑顔の啓介がそこにいた。
「あ、ハイ。……あの、じゃあ、お疲れ様でした」
気の利いた話題の一つも出てこない。拓海はいたたまれず、ビニール傘を差し出してくれた啓介におざなりに頭を下げハチロクに乗り込もうと踵を返す。
そんな拓海の腕を、啓介が掴んだ。半袖を着ていたせいで、むき出しの腕は雨に濡れて冷えていた。啓介の手の熱さに思わず振り解いてしまった。
「あ、すみません……びっくりして」
拓海は泣きそうになりながら啓介に向き直った。ものすごく感じが悪かったに違いない。拓海の態度に心底驚いたような顔をしているのも納得だ。
それでも啓介の熱を逃がしたくなくて、捕まれていた場所を反対の手で押さえた。
啓介は大げさなほどにため息をついて項垂れた。
「すっっっげー傷ついた」
「えっ、す、すみませ、本当にあの、びっくりしただけであの、どうしよう」
「本当に反省してんのか」
地を這うような声音にぶんぶんと頭を縦に振りたくった。沈黙が心臓に悪い。
「よし、なら飯付き合え」
「えっ」
見上げた先にはいたずらが成功したようなやんちゃな顔の啓介がいた。
「先行するからついて来いよ」
「え、え、でも」
「何、なんか無理な理由あんのか?」
いちいち凄むのを止めてほしいと思いつつ、それが本気でないことは拓海にもわかる。分かりましたよと項垂れ返すと啓介に大笑いされた。
連れて行かれたのは啓介の友達がアルバイトをしているという串カツ屋だった。雑居ビルの二階で、店内は小ざっぱりとしているが所々煤けた汚れもあって、どこか地元の商店街を思わせる雰囲気があった。
とてもこじんまりしているが賑わっている。ほとんどは啓介と同じ大学生くらいの若い男性客だ。
席に着くなりおしぼりを手渡された啓介が「本日のおすすめ」をいくつか注文する。
「ハイ喜んで~」
啓介の友達だろう店員が、笑いをこらえながらオーダーを読み上げた。
啓介も友達に見せる顔になってやりとりをしている。それを黙って眺めていた拓海は、あとは好きなものを頼めとばかりにメニューを手渡された。
テーブルがそこまで大きくないせいで、普段ミーティングで訪れるファミレスよりも距離が近い。おまけに膝同士が時折触れ合っている。拓海は離そうかしばらく悩んだが、おそらく逃げ場はないし啓介が気にしていないようなのでそのままでいることにした。
これではまるで変態みたいだと心の中で自嘲しながら意識がそこに集中しすぎないよう、辺りをきょろきょろと見回してみたりする。
「けっこう美味いぜ」
「ここ、よく来るんですか?」
「ん、たまにな」
彼女とも? とは喉がひりついて言えなかった。
そういえば向かい合って座るのは、久しぶりな気がする。ミーティングのときは席が別か、対角線上の離れた場所か、はたまた隣同士になるかであまり正面から啓介を見ることがない。
運ばれてきたウーロン茶を流し込み、店内の壁に所狭しと張られたメニューの札を見るふりをして啓介を盗み見た。啓介は頬杖をついて、拓海と同じように壁のメニューに目をやっている。
横顔だけでキュンとして、二人で食事をしに来ているという状況に、今更ながら気がついて夢のようだと心が躍った。仲の良い友達ならいざ知らず、啓介のことは友達と呼んでいいのかすら怪しい間柄だというのに。
拓海が何を話せばいいものかと悩んでいると、おすすめ料理がやってきた。狭いテーブルいっぱいに並ぶそれらを見ながら、啓介は嬉しそうに箸を割った。
皿の中身をほとんど平らげたあと、拓海は啓介が煙草を吸っていないことに気が付いた。
「ああ、何となく、願掛けってほどじゃねえんだけど……初めてのキスが煙草味だとかわいそうだろ?」
言い淀む啓介をじっと見つめて続きを待ったのに、はぐらかされてしまったようだ。からかうように言われたのは分かっているのに、拓海はつい啓介とのそれを想像してしまって真っ赤になった。
「何照れてんだよ」
「だって、あ、味って」
キスだって経験がないわけではない。けれどもリアルな言葉が恥ずかしい。拓海はうつむくしか術がなく、啓介は楽しそうに笑った。その笑顔を上目づかいに見ながら、もうそんな関係にまで発展したのだろうかと我に返った。
啓介は拓海のかすかな変化を感じ取り真面目な顔を作る。
「どうした?」
「あ、いえ……その、うまくいってるみたいですね」
自分からは触れまいと思っていた話題に、ついに触れてしまった。どんどん曇っていく表情を繕えず、自分の言葉に胸が軋んだ。
「おまえは?」
「え?」
「藤原のこと全部知ってるわけじゃねえけど、最近ちょっと無理してんなって感じるときがある」
まさかそれで誘ってくれたのだろうか。拓海は自分が情けなくなってまたうつむいた。
「そう、かな。ちょっと疲れてるだけっすよ」
「本当にそうか?」
「本当ですって。最近ちょっと仕事忙しかったんです」
啓介の優しさが嬉しかったが、情けない部分を晒すことには抵抗がある。
啓介に、ライバルとして一目置かれる存在でいたい。そんな相手だから余計に。それでもなお食い下がる啓介に拓海はついに観念した。
「あの、……じゃあ、ちょっと聞きたいんですけど」
切り出した拓海に、啓介はテーブルに前のめりになって食いついた。しかもどこか嬉しそうな笑顔だ。
こんな笑顔を見せてくれる啓介が、愛おしくもありつつ腹立たしくもあった。口が裂けても言えないと思いながら拓海を悩ませている原因、張本人なのだと言えたらどんなにすっきりするのだろうかと思った。
「好きかも、って人に相手がいたら啓介さんならどうしますか」
「…………」
聞きたがったくせに一向に答えてくれない啓介を訝しみ、視線を上げると啓介は難しい顔をしたまま黙り込んでいた。
時折、がりがりと頭を掻いて真剣に答えを探しているようだ。
「あの、そんな、えっとたとえばの話なんで別に」
「そいつらがもう付き合ってるなら手は出さねえけど、そうじゃないなら分からねえな」
拓海の言葉を遮りながら啓介が切り出した。難しそうな顔は変わらずでいつもより迫力が増している。
「付き合ってなくてもうまくいきそうだったら?」
「1%でも可能性があるんならオレは諦めねえ」
「じ、じゃあその可能性すらなかったら?」
「……何とか突破口見つけて切り開く」
「どう、やって」
語尾が消えかかるほど小さな声だった。男同士なんて突破口の欠片すら見えない関係なら、どうしようもない。きっと言ってしまえば友達という関係が壊れてしまう。相手に、啓介にだって負担ではないか。それが怖かった。
「諦めるしかないじゃないですか」
まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
いつか恋じゃなくなったら、この気持ちが恋じゃないと思えたら、冗談半分でだって言えるかもしれない。だけどこの気持ちは冗談なんかじゃない。だから失うのが怖い。
「諦められるくらいなら好きになってねえよ」
啓介は今きっと、想い人を頭に描いたはずだ。切ない声音に想いの深さを感じて、ガツンと頭を殴られたみたいに痛かった。
「オレは、前も言ったけど見てるだけなんて満足できねえし、やる前から諦めんのはいやだ」
「けど、もしダメなら、友達でいられなくなるじゃないですか」
「どっちかが恋愛感情持ってる時点で、友達としては付き合えねえとオレは思う」
拓海は言葉に詰まった。啓介の言っていることは尤もだと思うし反論の余地はない。だが啓介ほどの覚悟も持てず、テーブルの下の膝みたいに、つかず離れずの関係を望んでさえいる。
「そもそもなんで藤原は振られる前提で話してんだよ」
「なんでってそりゃ、……それが現実だからですよ」
「ンだよ、やっぱりたとえ話じゃねえじゃねーか」
舌打ちとともに聞こえてきた啓介の言葉に、何も言えなくなった。
「オレはもう友達じゃ満足できねーとこまできてるんだ」
さらに小さくなった独り言のような声に、拓海は胸が軋む音を聞いた気がする。啓介は少し苛だたしげに指先でトントンとテーブルを叩いた。
「ていうかさ、普通さ、それなりにアプローチされたらちょっとは気づくもんじゃん」
「は、はぁ」
「そいつ全然手応えねえんだよな。オレってまったくの範囲外なのかってさすがにちょっとへこむぜ」
そんな打ち明け話をしてくれるなんて思っていなかった。モテモテで、百戦錬磨で、引く手数多で恋愛で困ったことなんてないような印象すら抱いていたのに。
「……啓介さんでも苦労するんですね」
いったい啓介をここまで悩ませるほどの相手はどんな人物なんだろうかと、想像が膨らんでいく。
「おまえオレをなんだと思ってんだよ、想像と違うとかイメージが違うとかで振られたこともある男だぞ」
「ええー、し、信じらんね……ぶふっ」
失礼だとは思いつつ、拗ねた顔が可愛く思えて笑いが止まらない。
「おまえの理想なんか知らねえっつーんだよ。ていうか藤原、笑いすぎだろ」
「すみませ、……ん、ふっ」
笑いの止まらない拓海に、啓介は呆れたような顔を見せ、言うんじゃなかったぜと嘆いてみせた。
情けないその一言に拓海はなおも吹き出して、いよいよ目尻に涙まで浮かべて大笑いした。
「あー、もう、腹いてぇ。笑わせないで下さいよ」
これほどまでに笑ったのはいつぶりだろうかと目元を拭いながらまだくすくすと肩を震わせる。
「おまえが勝手にウケてんだろうが。オレの超切ない思い出のひとつだっつーのに失礼なヤツ」
「だからもう、本当ッ、ふは、ははッ」
啓介が唇を尖らせるから、しかもそれを正面から見てしまって堪えきれなかった。顔の筋肉がこんなに動くものだったのかと頬の痛みで初めて知った。ようやく笑いが治まってきて落ち込んでいた気持ちもずいぶん浮上した。
「はー。啓介さんフるなんてもったいないことするヒトもいるんですね」
「オレもそう思う」
気を抜いてしまったのか、ポロリと本音がこぼれ落ちた。しまったと一瞬顔が引きつったが、どうやら啓介は深読みなどせずに流してくれたようだ。拓海は赤い顔を隠すように、座り直してぬるくなったウーロン茶を口に含んだ。
こんな風に笑いあえるだけで、十分だ。素直にそう思う。啓介が誰かのものになってしまうのは寂しいけれど、想いが通じて幸せになってくれればいいと思う。
「うまく言えないけど、啓介さんならうまくいきそうな気がします」
拓海が眉を下げると、啓介はくしゃっとした笑顔を見せた。
「あの、悪いですよ、奢りなんて」
「いーよ。オレが誘ったんだし年上なんだから」
啓介がさっさと会計を済ませたあとも半分持つと食い下がったが、受け取ってはもらえなかった。
「今日はいいから。今度はラーメン、藤原の奢りな」
啓介が笑顔でそう言いながら店の扉を開けると、入る前より雨が強くなっている。激しい音で、声すら聞き取りづらいほどだ。
だが拓海は目の前の豪雨よりも啓介の言った「今度」が気になって仕方がなかった。
狭い通路は屋根はあるものの激しい雨で路面が濡れている。前を行く啓介が階段に差し掛かった時、足元が滑って階段から落ちそうになった。
「うわっ」
「啓介さん!」
とっさに手を伸ばし、啓介を背後から支える。啓介のぬくもりも匂いも、こんなにも濃く感じたことは今までになかった。それほどの距離に啓介がいる。
想像よりは細く、だが洋服越しでも分かるしっかりと筋肉がついた体躯。拓海は無我夢中で、ぎゅっと目を閉じたまま力いっぱい抱きしめてしまう。
「あー焦った。サンキューな、藤原」
吐息がかかるほどの距離で、啓介が振り返る。間近で見る照れた顔を可愛いと思い、そして自分が何をしているかを理解して、慌てて離れた。
「き、気を付けてくださいよ、あんがいドンくさいっすね」
変に思われないようにと考える分だけ、無愛想な言葉になっていく。それでも気持ち悪いと思われるよりは何倍もマシだった。
「おまえこそ一緒に落ちたらどうするつもりだよ」
「啓介さんひとり支えるぐらいわけないです」
平静を装いたくて腕をさすりながら力こぶを見せると、啓介はあははと笑った。
「カッコいいな藤原」
「あ、バカにしてますね」
拓海が唇を尖らせると啓介はますます可笑しそうに笑った。
こんな風にふざけ合えるようになるなど、想像の中のワンシーンでしかなかった。ささやかな幸せを感じながら、これ以上の未来を願うなと警鐘が鳴っている。
「もー頭きた。今度そうなっても助けませんよ」
「うそうそ、マジで感謝してるぜ」
ポンと背中を叩かれ、体が弾けた。啓介にとっては何てことのないただの軽いスキンシップだろうに、たったそれだけのことで顔中に血が集まったように熱くなる。
見られたくなくて、うつむいたまま啓介の後に続いた。
駐車場に下り、それぞれの愛車のエンジンをかける。運転席でアイドリングの音を聞きながら、啓介の言う「今度」を期待する心を止められないでいる。
社交辞令でしかないだろうそんな小さな一言にさえ縋りつきたくなってしまう。拓海の心と頭は矛盾で埋め尽くされていた。
ばしゃばしゃと水を跳ねる足音が近づき、開け放していた運転席のドアに手がかかる。啓介が腰をかがめて顔を覗かせた。
「藤原、悪い、火持ってねえ?」
「結局吸うんですか?」
冗談交じりにそんなことを言いながら、拓海はシートに座ったままダッシュボードに手を伸ばし、あの日と同じようにマッチ箱を取り出した。
「サンキュ」
啓介は拓海の手から小箱を受け取って中身を引き出した。
ちょうどそのとき激しい雷鳴が響き渡り、驚いた拍子に啓介の手からマッチ箱が落ちて中身が散らばった。啓介は舌打ちをしながらしゃがみ、箱を拾い上げる。
拓海はそんな啓介をスローモーションのように見ていた。
「あっ!!」
啓介の手の中にあるものを確認してやっと自分の失態を悟った。ざぁっと音を立てて血の気が引いていく。
拓海は思わず啓介が持っている箱を取ろうと手を伸ばしたが、それは空振りに終わった。啓介の手に絡め取られてしまったからだ。
「ち、違うんです、それは……あの」
「藤原が書いたのか?」
「えっ……と、あの」
啓介は手の中のそれをじっと見つめたままで動かない。小さな箱に閉じ込められていたはずの秘密がよりによって本人に知られてしまった。どうしようと気が急くばかりで何も言えず、顔をそらすことしかできなかった。
「どうなんだよ」
「……っ」
「藤原のダチが書いておまえに渡したんじゃねえよな?」
そういう躱し方もあったのかなんてことを意識の片隅で思いながらも、とっさの嘘はつけないでいた。
「すみません……啓介さん好きな人いるってわかってるんですけど」
こんなつもりではなかったのに。告げるつもりはなかったはずなのに。いや、万が一にもそんな時が来たらもっとびしっとカッコよく決めるはずだったのに。
「マジかよ」
「ていうか、はは……、も、もういいですよそんなまじまじ見ないで返してくださいよ」
啓介の返事など聞くまでもない。困らせてしまったと、情けなさを通り越して乾いた笑いが漏れる。
せめてライバルとしては対等に、隣に立てる自分でいたかった。惨めさに半ばヤケになっているのが自分でも分かる。
縋るように掴まれた指先が、痛いほどに熱い。囚われたままであることに驚きはしたが、今度は振り払うことはしなかった。さらに力を込められて、息をのみ、恐る恐る視線を合わせると、困ったように眉を寄せた啓介がいる。
その目元が、かすかに赤くなっている。
「啓介、さん?」
「さっき、藤原に思いっきり腕振りほどかれたときさ、マジで焦ったんだぜ」
「え……」
「オレがおまえのこと変な目で見てるの気づいたのかなって」
前の道路を車が通るたび、飛沫を上げる音が響く。雨音の中で、拓海は啓介の顔を凝視していた。熱い視線が揺らめいている。
(啓介さんは、何を言ってる? 都合のいいように解釈しすぎか? まさか幻聴とか?)
まだからかわれているのではないかと、そんなはずがないと、どこか啓介を信じきれない拓海がいて、真意を探れと本能が言っている。妙に脈が速いのを自覚して、こめかみにじわりと汗が浮かんだ。
「ど、どういう……意味」
情けないほどに声が震える。薄暗い中、外灯に照らされる啓介の顔は悔しいくらいに余裕が見える。
同じ男に好意を寄せられてこんなに余裕でいられる人が、心を乱されて走りに影響が出たとはとても思えないのに、期待する気持ちが止められない。
啓介が想いを寄せているのが自分だなんて、どうやって信じればいいだろう。
そんな素振りは、これまで一度だって気づかなかった。
「まだ気づかないふりすンの?」
「え、えっ? だって、そんな、あるわけない……っ」
啓介は真っ赤な顔の拓海を眺めながらふわっと笑って中腰になると、つないだ手を引き寄せそのままチュッと口づけた。
「助けてくれよ藤原」
「え……」
突然のことに頭がついていかない。体が動かない。唇が軽く触れたまま囁かれ、唇が動くたびにかすかな熱でくすぐられる。
「おまえに落ちたって言ってんだよ」
足元に散らばったマッチは濡れそぼってもはや使い物にならなくなった。拓海の思考もオーバーヒート寸前だ。秘密を抱えた小さな箱だけが啓介の手の中にあり、啓介はさらに拓海の心の中まですべてを暴こうとしている。
「やめ、啓介さ」
「好きだ」
「ン、……だ、めっ」
「藤原も言えよ。おまえの気持ち、ちゃんと聞かせろ」
「けど、……っ、困んない、スか?」
「オレは、な」
怪しく眇められた視線に、拓海の鼓動はますます速さを増していく。唇から、指先から啓介の熱が伝わる。啓介が拓海の太腿の間に膝を入れてシートに乗り上げると、一層キスが深くなった。雨の音も、雷鳴も、何も聞こえない。
ただ絡み合う舌の濡れた音だけが拓海の意識を支配していく。
「好きだ、藤原」
「やめ、もう言わないでくださ、……ッ」
「冗談。まだまだ好きって言い足りねえよ」
体中の血が沸騰して皮膚を突き破りそうだ。鼓動が速すぎて、心臓が壊れてしまいそうだった。
「藤原が手に入るんなら何度だって言うよ。スゲー好き。ちゃんと伝わってるか?」
「ふ、ぅ……っ」
「秋名で抜かれて、告白まで先越されるなんて、マジ想定外なんだけど」
これ以上はもうやばい。本当に取り返しがつかなくなってしまう。キスと言葉の愛撫だけで、熱が集まる箇所が痛いくらいに弾けそうだ。ズキズキと、嬉しくても胸が痛むだなんて知らなかった。
「なあ、これでもまだ諦めるしかねえと思ってる?」
顎をすくわれ、赤い頬を撫でられ、抗えないと知っていて、啓介はさらに追い打ちをかけてくる。
「オレは藤原が好きだよ。オレ一人支えるのなんてワケねえなんて言っといて、今さら逃げるのか?」
──この男は捕食者だ。たてがみを風になびかせて、獲物を捕らえる百獣の王だ。
熱い視線に打ち抜かれ、そんなことを思いながら啓介を見つめ返した。拓海は泣きそうになるのをなんとか堪えて、苦しい体勢に耐えながら啓介の体を抱きしめる。
「……オレ、は、……ンなもったいないこと、するわけないじゃないですか」
相手が獰猛なハンターだからと言って、黙って喰われてやるつもりなど毛頭ない。啓介が受け止めてくれると言うなら飛び込む以外に選択肢なんてない。
差しのべられた手を跳ね除けるなんて、できるはずがなかった。
「今さら冗談でした、なんて言うのナシですよ」
ぎゅうっと力を込めると、啓介が笑ったのが空気で伝わってきた。
「……体冷えちまったな。オレの部屋来るか?」
「えっ」
「つーか、来いよな」
そこにいたのは、あの日、朝焼けの中で見たよりもっと甘い笑顔の啓介だった。
拓海はいよいよ涙を堪えきれなくなりそうで、離れた体をもう一度抱きしめた。
2014-10-04
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