メロメロ
この時期はどうしても仕事が立て込んで休みの調整が難しく、Dの遠征との兼ね合いもあり、空けられる日はだいたいすべて仕事に充てている。
今日も残業にはなったものの何とか無事に仕事を終えて帰路につくその道すがら、ジーンズの後ろポケットに入れてある携帯を取り出す。薄暗い夜道でパネルの灯りだけがほのかに拓海の顔を照らした。
フリップを開けてカチカチと親指でボタン押すと着信履歴が見覚えのある名前で埋まっている。
「うわぁ……」
思わず声が漏れ、空いた手で口元を隠した。
高橋啓介、高橋啓介、高橋啓介、中村賢太、松本修一、高橋啓介、高橋啓介……履歴の一番上は中村賢太の名前が表示されていた。折り返そうと発信ボタンを押す寸前に手のひらの中の携帯が震えた。
「わ、……っ」
驚いて咄嗟に1コール目で電話を取ってしまった。ディスプレイにはさっきと同じ「中村賢太」の文字が出ている。
「も、もしもし」
『藤原か? 仕事終わった?』
「はい」
『何度もごめんな! けど啓介さんがうるさくてさあ……』
声の主はかなり焦った様子で、申し訳なささえ浮かべて言葉を続けた。
『あとどれくらいかかりそう?』
桜の花がずいぶんと散ってしまった通りをてくてくと歩きながら、ケンタの嘆き声を聞いている。
今日はDのメンバーで花見と称した飲み会が高崎のとある豪邸で開かれている。
金曜日の夜だからどこの店も混んでいるだろうと高橋家が場所を提供してくれることになったらしい。
拓海は仕事を終えた後で合流する予定になっていたが、思いのほか残業が長引いて当初の約束の時間からは大幅に遅れを取っている。
しかしながら疲れもあって足取りは重く、どちらかといえばこのまま不参加でやり過ごせないかという気持ちがないとも言えない。
「えーと……まだ家に着いてないんでもうちょっとだけ時間かかると思います」
『だよなあ……。けどもう啓介さんすげー酔ってて埒があかねーんだよぉ』
「え、啓介さんが酔ってるんですか?」
珍しいこともあるものだと思いながら、それならばびっしりと埋まった着信履歴にも納得がいく。
『そうなんだよ、すげーレアっつーかさ、けどあんま見たくなかったっつーかさ』
「………はは」
啓介シンパとも言えるケンタの声は、それでも少しばかり落胆の色がにじんでいた。乾いた笑いを浮かべる拓海の耳に、啓介らしき人物の声が飛び込んでくる。
『いいから藤原を呼べっつってんだろうが!』
松本か史浩だろうか、宥めるような声も一緒に耳に届く。
バタバタと暴れているような音と、ぐえ、というケンタの苦しそうな声と、普段はあまり聞かない荒げた声に驚いて、思わず携帯電話を耳から離してまじまじと電話を見つめた。
『な、はぁ…はぁ……、……さっきからあんな調子でさ、疲れてるとは思うんだけどマジ助けてくれよ藤原、うわぁッ』
拓海に助けを求める悲鳴のあとぷっつりと途切れた通話に眉根を寄せ、気付けば駆けだしていた。
「藤原出たか?」
ほんのりと赤く染まった顔を近づけてくる啓介に、ケンタの胸は無駄に高鳴る。
見惚れそうになって、実際のところはしばらく見惚れたあと、おい、と不満げに呼びかける啓介の声に我に返って手に持っていた携帯電話をポケットへとしまうと待ちわびた様子の相手に拓海とのやりとりを告げた。
「あ、今仕事終わったみたいです……ってイテェっす啓介さん!」
「そうか」
「酔いが……回ります……、啓介さ……っ」
啓介は酔っているにもかかわらず至極まじめな顔でケンタにコブラツイストをかけながら、ケンタのタップは無視したままぶつぶつと拓海の到着する時間の予測とその後の計画を立てているようだった。
ケンタは、遠巻きに自分たちを肴に酒を口に運んでいる史浩と宮口に視線で助けを求めたが、あちらも酔っているのか救いの手が差し出される気配はなかった。
ハチロクを高橋邸のガレージに納めて駆け足で玄関までの長いアプローチを進むと、インターホンを押す前に勢いよく玄関の扉が開いた。
「わ、えと……こんばんは」
「……助かったぁ」
迎えに出たのはケンタだった。泣きつくように拓海の腕を掴み、心底ほっとしたように息を吐きだした。その後ろには呆れ顔の涼介が立っている。軽く頭を下げると、涼介は組んでいた両手を解いて一歩近づいた。
「無理を言って悪かったな、藤原」
「いえ、そんな」
「先に言っておくが、……危険を感じたら迷わず逃げろ」
「え……逃げろって……」
肩に置かれた手に視線を送りながら、涼介の発した不穏な台詞を繰り返す。
バン! と大きな音が響いて、リビングから啓介が飛び出してきた。
「藤原着いたのか?!」
声のほうを見やると、満面の笑みを浮かべた啓介がずんずんと玄関に立ったままの拓海の元へと近寄ってくる。
啓介の距離が近づいてくるのに比例して涼介とケンタは引き潮のように拓海から離れ、後は頼んだとばかりにケンタはリビングへ、涼介はそのまま階段を上がって自室へと戻ってしまった。
ちょっと待ってくださいと言いかけて伸ばした手が空を切る。
静まり返った玄関ホールに啓介とふたり取り残され、幸か不幸か、リビングから助けが来るような気配は当然ながらない。
「なんだよ、遅かったじゃねーか」
「あ、はあ……すいません」
仕事だったんで、と続ける拓海の体は、啓介の腕の中に捕らえられた。
「──?!」
勢いよく抱きついてきた啓介の重みを、突然のことで支えられずに玄関の扉にぶつかった。
「いってー、あんたいきなり何すんだよ」
ぶつけた後頭部をさすりながら、つい乱暴な言葉が飛び出してくる。啓介はそれを気にも留めず、拓海の首筋に顔を埋めている。
「あー藤原だ……待ってたぞ藤原ぁ……」
拓海の髪や首筋に鼻を寄せながら、熱っぽく掠れた声で囁いた。
「け、啓介さん?」
あまりに突然で、脳が現状を把握するのを断固拒否している気がする。
されるがまま固まっている拓海に構わず、啓介はもみくちゃにするように拓海の髪や顔を撫でまわす。
鳥の巣のようにくしゃくしゃに乱れた髪をなんとか手櫛で整えようにもじわりと赤くなった両頬を包んだ啓介の手が強引に上向かせ、鼻先が擦り合うほどすぐそばで目元を赤く染めた啓介が拓海を見下ろしている。
言葉に詰まって啓介に視線を合わせると、アルコールのせいか啓介の切れ長の目からはいつもの鋭さは感じられず、その代わりに甘く蕩けるような熱が浮かんでいる。
こんな顔はずいぶん久しぶりに見たような気がする、と知らず見惚れて息を飲んだ。
その目に捕らえられ、次第に鼓動が速くなる。
頬を包んでいる啓介の手が少し動いて、親指が拓海の唇の輪郭をなぞる。
指先がゆっくりと唇の隙間から侵入して歯列に触れ、反射的に薄っすらと口を開くとそのタイミングを見計らったように親指が差し込まれた。
「あ…………?」
ふふ、と上機嫌に笑った啓介の顔にまたしてもうっかり見惚れて、次の攻撃もかわせなかった。
「ふ……、……ンッ」
指の代わりに舌が侵入し、舌先がゆるゆると口内を撫でまわすと酒の匂いが鼻から抜けていく。背中と両手を玄関の扉に押し付けられ、さらに深く口づけられた。
「んん……っぁ、け……すけさ……ん」
「は……、藤原……っ」
こんなところでと思うのに、舐るようなひどく緩慢な動きで舌を絡め取られると、啓介の愛撫に慣れた体が期待に疼き始める。
啓介は名残惜しそうに舌先で口蓋をつつきながら唇を離すと、押し付けた両手の指先を絡めてきつく握った。
「部屋行こうぜ」
到着したばかりで玄関で足止めを食らい、そのまま部屋に連れ去られそうになっている。酒は飲めないのだから酔っ払いの輪の中に放り込まれるよりは、どうせなら啓介とふたりでいたいと思った。
けれど例え酔っ払いの啓介を押し付けられたとはいえさすがに愛想のひとつもないままというのは気が引けて、しっかりと繋がれている手を押し返して距離を取る。
「……あの、じゃあ史浩さんたちに挨拶してきます」
「なんで」
「なんでって……」
それに答えてもきっとあれこれと揚げ足をとってくるのだろうと呆れたように小さくため息をこぼして、目の前の啓介をかわしてリビングへと足を進める。
背後から抱きついてくる啓介をそのまま引きずりながら扉を開け、中にいる史浩たちに声をかける。
「あの、啓介さん潰れたみたいなので部屋に連れて行きます」
「来たばっかりなのに悪いな藤原」
軽く手を上げて立ちあがる史浩の横で、ケンタは酔いつぶれたのかテーブルに突っ伏していた。
「ああ、ケンタならさっき啓介からすごい勢いでプロレス技かけられてたからそれが効いてきたのかもな」
視線で察したのか、史浩は「まったくまだまだ若いな」と軽く零した。
ケンタの隣で宮口が遠慮がちに会釈を返した。
「この様子だとすぐに寝ちまうと思うけど頼むな。今度介抱させたお詫びとでも言ってメシ奢ってもらえよ」
「いえ、ははは。……それじゃあ、連れていきます」
寝たふりをしたまま首に絡みつく啓介の腕に手を添え、リビングを出ようとする拓海に今度は松本が声をかける。
「藤原、これ」
「はい?」
「啓介さん起きたら飲ませてやれ」
松本の手にはミネラルウォーターとスポーツドリンクが握られていた。
それを両手で受け取るとぺこりと頭を下げ、半ばおぶった状態になった啓介を引き連れて階段へと向かった。
大差がないとはいえさすがに自分より背の高い啓介を担ぐわけにもいかず、階段を見上げて足を止め、首だけで振り返る。
「啓介さん、歩けますか」
「……んー」
首元で頭を振られ、くすぐったさに肩を竦めた。
「ほら、肩貸しますから」
「なんだよやけに優しいじゃねえか藤原ぁ」
「いつもですよ」
「ふははっ、よく言うぜーまったく」
軽口を返しながら啓介の体を支えて階段を上る。壁に寄りかかりながら少しずつ上り、やっと部屋に到達したときには思わず大きなため息が出た。
「ったく……これじゃあ豆腐の配達のほうが断然ラクじゃん」
相変わらず散らかった部屋の真ん中にある大きなベッドに啓介を横たえ、その隣に腰を下ろすと松本から渡されたスポーツドリンクを口にした。
「オレんだろーそれぇ」
啓介は枕に半分顔を埋めたまま舌足らずな調子で言うと拓海のTシャツの裾を引っ張った。キャップを閉じ、ペットボトルの底を啓介の顔に押し付ける。
「なんでこんなになるまで飲んだんですか」
啓介は顔の上に置かれたペットボトルを掴んで体を起こすと、呆れ顔の拓海を背中から抱きしめる。
「そんなことよりいちゃいちゃしよーぜ」
「いちゃいちゃって……下にみんないるんですよ?」
隣の部屋には涼介だっているはずだ。
「んー……久しぶりの藤原のにおい」
焦る拓海に構わず耳の後ろに舌を這わす。そのまま耳朶を口に含んでちゅっと吸い上げ、Tシャツの裾から手を差し入れてくる。
「ちょっ……、啓介さんだめだって」
こうなることを期待していなかったとは言わない。だけどさすがに躊躇なく受け入れられるほど図太くはできていない。
「じゃーちゅーだけ」
言いながら拓海の体を振り向かせると答える間もなく強引に唇を塞いでくる。啓介の手は服の中をまさぐったままで、口腔内を舌が器用に動きまわる。
火照った体以上に熱い手のひらが何度も往復し、その動きに合わせて啓介の吐き出す呼気に含まれるアルコールが体内を駆け巡っていくようでこめかみに汗が浮かんだ。
「は……っ、……ん」
夢中でキスに応え啓介の唇を貪っていると、押し倒された弾みで唇が離れる。
「……酒くせー」
「うるせー。嫌なら逃げてもいいんだぜ」
拓海にのしかかり、額を合わせると今度は啄ばむようなキスの雨を降らせた。
そう言えば涼介にも同じことを言われたなと思い出しながら啓介の背に手を回し、唇を捕らえた。
「逃げませんよ」
「上等だ……」
口端を上げ、角度を変えて深く口づけてくる啓介に負けじと舌を差し出し、絡みつく。
「ん、藤原ぁ……」
「……っ、……は……ぁ」
「やべ……くらくらしてきた」
そう言いつつもキスは止めない啓介に、軽いため息をこぼす。
「べろべろになるまで飲むからですよ」
「ん……なに、……めろめろ?」
「ちが……、ん……ぁっ」
「まちがってねえよ……ほんと、めろめろ」
そんな一言で真っ赤にゆで上がる拓海に照れ笑いを浮かべた啓介は、拓海の体をきつく抱きしめた。
「あいつらがいるからさすがに我慢しようと思って……けど酒でも入れねえと止められる自信ねーから」
これだけ飲んだらいくらなんでも勃たねえなと自嘲気味に笑いながら深酒の理由を告白し、しばらくすると寝息を立て始めた。
枕から頭を起こして啓介の顔をのぞきこむと切れ長の目は閉じられていて、規則正しい呼吸とともに背中がゆっくりと上下に動いている。
「え、うそだろ、まさか啓介さん……寝た……?」
答えのない啓介から視線を外してぼすん、と枕に頭を押し付け、中途半端に煽られた熱を恨めしく思いながら思い切り息を吐きだした。雁字搦めに抱き込まれた体はちっとも動く気がしない。
「……やっぱり逃げればよかった」
呟いた言葉が聞こえたのか、啓介はひときわ力を入れて拓海の体を抱きしめた。
2012-04-20
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