月夜の風

 いつもつるんでいるメンバーはその日に限ってどいつもバイトだ女だと捕まらず、一人どこで暇を潰そうかと先代から受け継いだ単車に跨り街中をだらだらと走りながら、ふいに一服したくなって停めたのが偶然にも渋川の駅だった。
 夕焼けの空の中、風に漂う煙をぼんやりと目で追っていると、駅前のロータリーを何周かしてる古い車が目についた。運転席はよく見えなかったが、若い男のように見えた。 その世代が乗るにはやや時代遅れの気もするが、旧車好きということもある。 吸いさしのたばこを喫煙所の灰皿に押し付けながら白黒の車体を眺めていた。誰かを迎えに来た様子には何となく見えなくて、結局その車は止まることもなく駅を出て行った。 何だったんだ。一瞬はそんな思いが浮かんだが、見知らぬ相手へのそんな感情などはすぐに消えて、啓介は愛車に乗って秋名の峠へと向かった。
 兄の涼介が夢中になっているのは自分と同じバイクではなく車だった。忙しい時間を縫ってチューニングを施し、夜に山を走っているらしい。 車など邪魔なだけだとあまり興味を持てずにいたが、あの兄が傾倒するものがどんなものなのか見てみるのもいいかと思ったのだ。 兄が走る時間や場所は違えど道は変わらずそこにある。どこの峠も大した違いなどないんだろうと、緑の生い茂る道を走り抜け、山頂を目指した。何度か往復してみても、対向車もろくにいない、寂れた峠だという印象だった。
 何度目かの下りの途中、コーナーを抜けきる前に三角表示板を持った男が視界に飛び込んできた。先ほどまではいなかった事故車だ。くそったれ。啓介は毒づきながら車体をコントロールし、すんでのところで接触をかわす。 崩れかけたバランスを立て直す最中、対向車線からヘッドライトの明かりが近づいて来ていることに気づき、フルフェイスのメットの中で盛大に舌打ちをした。 こんなところで死ぬのは御免だ。骨折程度で済めばいいが、兄や世間体ばかり気にする両親の小言を想像するだけで鬱陶しい。大人しく轢かれるつもりはないが不可抗力というものもある。 啓介は覚悟を決め風景がスローモーションのようにゆっくりと動いているのを感じながら、その光景の中で対向車のヘッドライトが自分から遠ざかっていくのがはっきりと分かった。 時間にすればわずか数秒の出来事だ。タイヤの焼ける臭いが鼻につく。響き渡るスキール音とブレーキが上げる悲鳴が少しの余韻を残して治まると、その車──駅前で見た白黒のハチロクだ──はゆっくりと動き始め、この場を去ろうとしている。 啓介は瞬時に体勢を立て直し、テールランプを追いかけた。
 山頂らしき開けた場所に出たとき、夜景を見下ろせるようなスペースにも関わらず止まっている車は片手でも十分足りるほどだった。薄暮の中で、ハチロクはゆっくりと停止した。 外灯のわずかな光の中でぼんやり浮かび上がる白い車体、運転席のドアには藤原豆腐店と書いてある。啓介はヘルメットを脱いでシートに乗せ、ゆっくりと近づいた。 運転席に乗ってるのが若い男に見えたのは勘違いだったのだろう。いったいどんなオヤジが出てくるのかと啓介は身構えた。なかなか降りてこないドライバーを、啓介は辛抱強く待った。いわば命の恩人だ。礼くらい言わせてほしい。
 ようやく開いたドアから出てきた男を見て、啓介は瞠目した。どう見てもその男が着ているのは学生服で、明らかに自分よりも若いのだ。 まだ少年と言っていい人物が気まずそうに視線を落として立っている。
「お、おまえが、運転してたのか」
 絞り出した声は掠れていたが、少年には届いたようだ。目も合わさず、ほんのわずかに頷いた。無免許運転だろうことは明白だがそのことには触れるまい。 自身も真っ新な身かと問われれば答えは否だ。足元が崩れていくような錯覚に陥りながらも、啓介は一歩踏み出した。
「ありがとうな。おまえのおかげで命拾いした」
 少年は緩く首を振って、「オレ、アンタがどっちに行くのか見えただけだから」と言った。
 勘でもまぐれでもないと言うのか。仮に見えたのが本当だとしても、スピードの乗ったバイクを避けるのは至難の業だ。並の技術ではないことくらい普段車を運転しない人間ですら分かる。 啓介はそうか、としか答えようがなかった。我が身に起こったこととはいえ信じがたい事象は疑う余地はいくらでもありそうな気がしたが、彼が啓介のバイクと事故車を避けたというまごうことなき真実は目の前にあり、それが現実だった。
「それ、親の車だろ? 勝手に乗ってきたのか?」
「別に……アンタに関係ない」
「まあそうだけど」
 内心では可愛げのないやつだと思いながら、啓介は自販機でジュースを買ってやった。 少年は少し戸惑いながらぼそぼそと礼を言ってそれを受け取る。缶コーヒーを片手に煙草を取り出し、火を点けた。少年は啓介を見上げ、大きな目を何度も瞬く。
「アンタ、不良なの?」
 その一言に咽ながら見下ろすと、少年の顔は真剣そのものだ。素行が良いか悪いかと言われれば、圧倒的に後者だが。啓介は別に、とだけ答えて少年とは反対側へと煙を吐き出す。
「オレ本当はグレようと思ってたんだけど、うち貧乏だから不良にもなれないんだ」
 苦々しく呟く少年の声に、啓介はうっかり笑いそうになってしまった。 なろうと決めてなるものでもないし、どういう理屈でそう結論付けたのかはこの際聞かないでおくが、無免許で車を運転しているなら十分に不良だ。
「なんでグレたいわけ?」
「親父はオレに店の手伝いさせるのに自分は酒ばっかり飲んでる」
「そりゃひでーな」
「……うん」
「うちの親もとっくにオレのことなんか見放してるくせにたまに顔合わせたらまじめに学校行けだとかいい大学出ろとかうるせーんだよな」
「そうなんだ」
「優秀なアニキとことあるごとに比べられてちゃたまんねーよ。おまえのオヤジは勉強しろとかうるせーの?」
「そうでもない」
「そりゃ気楽でよかったな」
 啓介は自然と笑顔になっていた。まだ小柄な少年の頭をぐりぐりと撫で、空き缶の中に吸い殻を放り込む。 子ども扱いされたのが気に障ったのか、少年は不機嫌に唇を突き出して乱れた髪を整えている。
「オレのアニキも車好きなんだけど、何がそんなに面白いんだ?」
「オレ車の運転なんか好きじゃねーもん」
「その割には車乗ってこんなとこ来てるじゃねーか」
「だって煙草もお酒も買えないし、こんなことくらいしかやることないから」
「それ運転嫌いって言わねーよ」
「嘘じゃない。仕方なくやってるだけだ」
「ふーん。オレはそうは思わないけど、おまえがそう言うんならそうなのかもな」
 まだ幼さが勝つ少年は年の割に相当な頑固者のようだ。啓介は押し問答が面倒になって話を切り上げた。 やっぱり可愛げがないと思ったものの、意地っ張りの弟がいたらこんな感じなのだろうかと思った。ここのところ話すのが嫌で避けていた兄と膝を突き合わせてみよう。啓介はそんなことを考えていた。
「まぁ、どっちにしてもおまえのおかげでオレは死なずに済んだぜ。サンキューな」
「たまたま見えただけだってば」
 少年の声に苛立ちが混じり始めている。とは言え啓介には子猫が逆毛を立てているようにしか見えないのだが。
「素直じゃねえ少年にひとつだけ教えておいてやる。おまえ、不良は向いてないよ」
「なんでアンタにそんなこと言われなくちゃいけないんだ」
「おまえの進む道がそっちじゃないってのがオレには見えるからだよ」
「はぁー? 意味わかんねー」
 納得いかない顔をしているが、少年がどうしても「不良」になりたいわけではないことぐらい、考えるまでもない。 啓介はヘルメットを被り、バイクに跨った。
 やり場のない苛立ちや怒りをただ闇雲に撒き散らしていたこれまでの自分を否定するつもりはない。 だが今日ここで一度死んだと思えば、このままでいいのかと折に触れ口うるさい兄と話をするにはいい機会だ。
「下手打って捕まるなよ。ケーサツはいろいろ面倒だからな」
「……経験あるのかよ」
 その問いには答えず、啓介はもう一度少年の頭に手を乗せ、ブリーチもしたことがないだろうさらさらとした髪の感触を楽しんだ。睨みあげてくる少年が不機嫌を爆発させる前に逃げるとしよう。
「じゃーな」
 啓介はヘルメットのシールドを下げ、アクセルグリップを回した。ミラーに映る少年がみるみる小さくなっていく。 ただの思いつきで訪れただけの場所で、とんだ出会いがあったものだと風を切りながら自然と口端が上がる。もう二度と会うことはないかもしれないし、いつかまた再会する日が来るかもしれない。 そんな日が訪れるのであれば楽しみだ。
「ああ、名前聞くの忘れてたな」
 呟きは風にかき消され、落ち葉とともに夜空に舞い上がった。


「おまえ、名前は?」
「……藤原拓海」
「オレは高橋啓介」
 交流戦に現れたのは、明らかに自分よりも若い男だった。啓介は既視感を覚えつつ、それがいつのことだったのかははっきりとしないままバトルへと臨んだ。 待ちわびた対戦に高揚し、いつも以上に気合いが入る。
 まさか自分が負けるだなどと、微塵も想像していなかった。単車から乗り換えてからの3年間、峠のカリスマと称される兄に追いつこうと必死に走りこんできた。 それを嘲笑うかのようにゴール地点に取り残された屈辱に、啓介は思わず車外に飛び出した。 だがすでにテールランプは小さくなっていて、遠ざかる赤い光を睨みつけているうちに、ふいに記憶が呼びさまされたように鮮やかにあの時の光景が蘇ってきた。
「あっ、あいつ……ッ!」
 あの時よりずいぶん成長した少年は、ドライビングテクニックにさらに磨きをかけてきたようだ。あの頃は運転が嫌いだのとのたまっていたが、やはり根底ではそうではなかったのだと啓介は確信した。 そうでなければあんなテクニックが身につくはずがない。誰よりも走りこんできたと自負していたものが揺らぎかけ、啓介は奥歯を噛みしめる。
 こうして再び出会ったのは何の因果か運命か、あの少年、藤原拓海が啓介のこれからにとって欠くことのできない人物になるであろうことは明白だ。 恩義はあれど負ける理由には成り得ない。淡い月光の中、啓介はいつか雪辱を果たすことを心に誓った。

2017-12-25

サイト5周年記念のリクエスト。
「啓介がFD乗りになる前に既に拓海と出会っていて、運命めいたものを感じるお話」でした。リクありがとうございました! back