未来の景色
今夜のプラクティスはいい出来だったと、ハチロクのボンネットを見つめながらほっと胸をなでおろす。
自分にできる精いっぱいの走りをするだけだとは思っているが、やはりこの赤城で、あの走りを目の当たりにすれば嫌でも気が引き締まる。
走りへの貪欲さ、速さへの執念を見せつけられて平然としていられるほど拓海は冷めていなかった。それを思い知らされる。
後ろについて走るときも、道の途中ですれ違う時にも車越しですら感じる熱が体の中を侵食していくような錯覚を起こす。
解散の号令を聞いてやっと緊張から解き放たれるのだ。
赤城でのプラクティスのあとはいつも疲労と心地良い充実感に包まれながら帰路に着く。
「帰って寝よう」
口の中で呟いてドアに手を掛けたようとしたところに、二人組の女性が近づいてきた。
「あのぉ、プロジェクトDの人ですよね」
「え、えっと」
「もしぃ、これから時間あったらどこかでお話できませんか~?」
「い、いや、オレは」
短いスカート、派手な化粧。自分の周りには全くいないタイプなうえ、聞いたこともないような甘ったるい声に戸惑いうつむく。声を掛けられることなどめったにないせいか、どう切り返せばいいのかまったく分からない。
返事に困っている間も彼女たちはマシンガンのように話し続けているが内容はまったく耳に入ってこない。
「その辺で勘弁してやってくんねーか」
聞き覚えのある声に振り向くと、啓介が笑いを噛み殺しながら立っていた。背後ではきゃあと黄色い声が飛ぶ。拓海は思わず安心しきったようにほっと息を吐いた。
「えー、じゃぁ啓介さんはぁ?」
「オレもパス。おまえらも早いとこ帰れよ」
名前も知られているとはさすがは有名人だ。拓海は妙なところで感心しながら啓介を見ると、啓介は絵に描いたような作り笑いで手を振っている。
プロジェクトが始まってそれなりに長い時間を共有しているが、ここまで機械的な笑顔を見たのは初めてのような気がする。
彼女たちはクスクスと笑いながら間延びした返事をし、あっさりと引き下がった。
ちらちらと振り返る二人を啓介はまるで存在していないかのように拓海に話しかけてくる。
「ぼーっとしてると食われるぜ、おまえ」
「はぁ? そんなわけないでしょうオレなんか」
「一丁前にナンパされながらよく言うぜ」
「な、ナンパ?」
啓介は喉の奥で笑い、拓海の頭をぐりぐりと撫でた。
「ちょ、なにするんですか」
まるで小さな子供をあやすような仕草に、思わず飛び退いた。
啓介はハチロクにもたれかかり、拓海をじっと見つめる。
「な、なんですか」
「藤原、この後時間ある?」
「え?」
「おまえに渡さなきゃいけない資料預かってたんだけど家に忘れちまってさ。今日は急ぐなら明日にでも持ってくけど」
「いえ、いいですよ。もらいに行きます」
「アニキか史浩だったら忘れたりしねーんだろうけど、悪いな、手間かけて」
啓介はほっとしたように笑い、拓海もつられて笑顔を見せた。
夜であってもここが高級住宅街だということが分かる。地元とは全然違うなと思いながら、先行するFDに続き、4台は余裕で停められそうな広いガレージへと車を入れた。
「うわ、きたねぇ」
「うっせー。これでも片付いてるほうなんだよ」
部屋に通されて第一声がこれとはいかがなものかと片手で口を押さえ、ちらりと啓介を見上げた。
啓介は少しだけ拗ねたように唇を突き出していたが、その顔はほんのり赤くなっていた。
「藤原はそっちのクローゼットの中探して」
「はぁ」
壁一面に据え付けられた扉はその前にもモノが山積みで、開けることすら一苦労だ。 足元のそれらを脇によけ、散乱する紙類を拾い集める。
「いつもの青いファイルに入ってるはずだから」
「はい」
服や雑誌や、何に使うか分からないおもちゃらしきものを高く積み上げ、とにかく立てるスペースを確保する。
「引出しとか開けちゃってもいいんですか」
「いいぜ、気にすんな」
「啓介さんはちょっとは気にしてくださいよ、この散らかり具合を」
「へーへー」
値札がついたままのものや買い物した袋から出されてすらいない洋服がそれこそ山のように出てきて、ベッドの上はもう今夜寝ることすらできなさそうな状況になっている。
クローゼット内の引出しは中身が引っかかっているのか半分までしか開かず、拓海は一度奥まで閉めて、思い切って力を入れて引出しを開けた。勢い余って引出しが抜け、中の物が拓海の足元に落ちてきた。
「わ、やっちまった……っ」
拾い集めていると、小さな箱が目についた。手のひらサイズのそれは、テレビドラマのプロポーズシーンなんかで見たことがある。実際に手にしたのは初めてだ。
拓海は黙ったまま振り返り、探し物を続ける啓介の背中を見つめた。
モテることは実際目の当たりにしているし疑いようもないが、今は特別な相手がいるらしいという話は聞いたことがなかった。
プロジェクトの場に連れてきている様子もないし、普段の関係を思えば当然と言えば当然だが、拓海にそんな話をしてくれたことはない。
だが、ただ知らないだけで、実はコレを渡したいような、将来を意識するような相手が啓介にはいるのだろうか。
正直なところ気にはなるものの、だが気軽に聞くというには話題のハードルが高すぎる。
小さく息を吐いて、ぶちまけてしまった引き出しの中身を黙って元に戻した。
「あ、あった見つけたぜ、藤原!」
言葉とほぼ同時に大きな手が肩に乗った。突然の接触に驚き、バランスを崩してせっかく集めた小物を取り落しそうになる。慌てて押さえたがいくつか間に合わなかった。
きれいなミントグリーンの小箱が転がっていくのを気まずいまま目で追った。隣に来た啓介が手を伸ばしてそれを拾い、少しだけ考え込むようにして見つめていたが、拓海の手から引出しを受け取ってその中にしまった。
「戻ろうぜ」
啓介はそれ以外何も言わなかった。ただの一言も、何も。
今夜はバトルの本番だ。
夜に備えて眠らなければいけないというのに、やけに眼が冴えてしまって気持ちがざわついている。啓介の部屋で小さな箱を見つけたあの日からずっともやもやが燻っていた。
(なんでこんなに啓介さんのこと気になるんだろう。めちゃめちゃ意識しちまってる)
拓海はひとまず眠るのをあきらめハチロクから降りると、涼介のもとへと向かった。燦々と降り注ぐ陽光を避けるように停められた車と張られたタープが目印だ。
日陰になったそこには啓介もいたが、拓海は軽い会釈だけをして極力啓介を見ないようにした。
「どうした藤原」
「あのオレ、ちょっと下のコンビニまで行ってきます」
今の自分には気分転換が必要だ。いつもなら嫌なことも眠ればすっきり忘れてしまえる性質だというのに、眠れないのだから仕方がない。
「あ、オレも行く」
「えっ?」
ハイエースの鍵を片手で弄びながら立ち上がった啓介に、思わず声を上げてしまった。拓海の反応が意外だったのだろう、啓介は訝しむように拓海を見つめる。
無言で見合って、慌ててお願いしますと頭を下げた。
「アニキはなんかいる?」
「ああ、いつものを頼む」
「オッケー。じゃ、行こうぜ藤原」
淡々と乗りこむ啓介に続き、助手席のドアを開ける。見上げる啓介の横顔は悔しいほどに冷静だ。
蝉の声と陽炎と、真夏の盛りを迎える今の時期は車内が冷えるのも時間がかかる。吹き出る汗を袖で拭い、熱で揺らめく目の前の道を見つめる。
「藤原が眠れないなんて珍しいじゃん」
「はぁ、まぁ」
眠れないことを見透かされているとは思わず、答えに窮する。頬を掻き、気まずさをやり過ごす。
後部席を取り払った車内には整備のための道具や機材が整然と並べて置かれ、車が弾むたびに金属の擦れる音が響いた。道形に揺れる車体と一緒に己の体も弾んだ。
「しっかし暑いな。今年もう海行った?」
「いえ、今年はまだ……」
「あれ、おまえ彼女いたんじゃなかった?」
啓介はエアコンを全開にしながら世間話のように言う。
拓海はわざわざ隠すようなことでもないかと小さく息を飲んだ。
「卒業してからは連絡取ってないです。あっちは東京行くって決まってたし」
「遠距離が嫌だったのか?」
「そういうのとはちょっと違うんですけど、今はプロジェクトDのことでいっぱいいっぱいですよ」
「ああ、それは分かる」
「東京行くの夢だって言ってたから行ったほうがいいと思ったし、それ諦めてまで一緒にいてほしいとは思えなくて、いつか後悔するかもって。
だからお互いやりたいこと選んだからやっぱりそれでよかったのかとか思ったり、して……オレ何言ってんですかね」
言うつもりもない愚痴までうっかり聞かせてしまい、拓海の言葉は尻すぼみになった。啓介は風量を切り替えて、ついでにラジオのボリュームも絞った。
「車に没頭したくて女切ったことはオレにもあるよ。オレはそれでよかったと思ってるけど、何が正しいとかそう言うのは結局藤原の中にしかないんだし、その時のお前にはそれが正解だったんじゃねーの」
「そう、ですかね」
「そう思えるような結果出すのが一番じゃねえのか。それが藤原のためにもチームのためにもなるしさ」
「……啓介さん」
「あ、いや、つーかまぁ、語りすぎか。聞き流してくれていいから」
「いえ、ありがとうございます」
啓介が掛けてくれた言葉に、拓海の胸中はずいぶんと軽くなった。前屈みになって啓介の顔を覗きこむと、啓介はそそくさと視線を外すが、その耳朶が少し赤くなっていた。
そんな顔を見たのは二回目だな、と拓海もつられて頬を熱くした。
目的地に到着すると啓介は心なしか乱暴にサイドブレーキを引き、エンジンを切った。拓海も車を下り、啓介に続く。
駐車場から入口までのほんの少しの距離でも熱気が体に纏わりつくようで思わず顔をしかめたが、啓介の背中から目をそらせなかった。
店内に入ったとたん籠を取った啓介は手慣れた様子で飲み物やアイスを放りこんでいる。強いくらいに効いたクーラーの冷気に一時の癒しを感じながら、拓海も陳列棚に冷えた飲料水を物色していた。
「藤原、これで払っといて」
「え? あ、はい」
顔を上げると啓介がカゴと財布を手渡してきた。何事かと振り向けば、啓介はそのまま店の外へと出て行った。店の前では子連れの女性が手を振っている。
女の子は鮮やかな黄色のスカートを穿いていて、恥ずかしいのか女性の首にしがみついている。母親の方はまるで子持ちの女性には見えないほどだ。
何を話しているのかは分からないが、知れた仲だと分かるような空気感が二人を包んでいた。惜しみなく笑顔を見せる啓介に、そんな顔もするのかという思いが沸き起こった。
小さな棘が刺さったようなちくちくとした痛みを覚え、拓海は胸のあたりでTシャツを握る。二人から目をそらし、いつものミネラルウォーターのペットボトルをつかんでレジに進んだ。
ビニール袋を片手に店を出ると啓介は素早く気づいて片手を上げた。拓海は小さく会釈をし、助手席のドアに背を預けて袋の中身を見るともなしに眺めていた。啓介が選んだアイスとコーヒー、いちご大福が入っている。
小さな手を一生懸命に振る女の子とその母親を見送ると、戻ってきた啓介がようやく嵐が去ったかのように盛大にため息をついた。気だるげに車に乗り込み、拓海から受け取ったビニール袋の中を漁っている。
友達ですかと聞いても問題はないだろうに、不自然になりそうな気がしてなかなか言葉がうまく出てこない。拓海は指先で頬を掻いた。
「あのさ、今のあいつ、……元カノなんだけどよ」
「え?」
「ほい、半分こ」
啓介はチューブ型のアイスをパキンと割って、その片割れを笑顔で差し出してくる。
いつも見かける作り笑いではないその顔に思わず照れてしまう。拓海はまともに啓介を見られず、うつむきがちにアイスを受け取った。
「藤原もぶっちゃけてくれたからオレも言う」
「えぇ?」
「オレの部屋で見つけたアレ、覚えてるか?」
「あー、あの、……はい」
「あれ渡して突っ返された」
「へ?」
「中身はピアスなんだけどな。欲しいのはこれじゃないって」
「え、え?」
「その2週間後には左手に指輪嵌めててさ、子供出来たから別れるって」
「────、それ……って」
「あ、念のため言うけどオレの子じゃねえよ。最後の方はほとんど会ってなかったし」
「全然、意味がわかんねーんですけど」
「さすがに3股されてたって知ったときはちょっと凹んだけどな」
衝撃が連続で襲ってくるせいで、頭の整理が追い付かない。何ともない風に話す啓介はソーダ味のアイスをもう半分ほど食べ終わっていた。
「き、強烈な人っすね」
確かに美人ではあったが、その中身の方がかなりのインパクトだ。啓介をもってしてもそのような憂き目に合うというのか。あるいは涼介であってももしかしたら。そんな印象を抱かせる。
「この話したの藤原だけだわ。ダセーから」
「だっ、別にダサいとかオレ全然思ってないです」
「ありがとな。今は普通に友達だし終わった話だから別にいいんだけどさ」
啓介は明るく笑うとシフトレバーを握り、アクセルを踏んだ。
まだ日は高く、緑が眩しい。光と影のコントラストに目を細める。頬杖をつき、もう何十回と観た道路のコンディションを改めて頭に叩き込みながら、それでも意識は啓介の方へ引き寄せられている。
相変わらず雑談は苦手で、会話も満足には続かない。ただ啓介の失恋話が頭の中をぐるぐると巡っていた。
(啓介さんと付き合ってて3股とか信じらんねぇ。オレならそんなことしないのに)
ガクンと体が揺れて、後部では工具のぶつかる音がする。
悪路に車が揺れただけだったが、拓海はたった今浮かんだ自分の思考に血の気が引いていくような思いだった。
右隣の啓介を盗み見るように窺うと、その視線に気づいた啓介が振り返って
「何だよ、今のは道のせいだろ」
と笑った。今まで見たこともないその笑顔に、心臓が音を立てたのが分かった。
「正直さ、おまえとこういう話するのって想像つかなかったんだ。プロジェクトDは仲良しグループってわけじゃねえから仕方ないとこもあるけど藤原ってどこか一線引いてるっつーか、他人に興味なさそうって思ってたからさ。
部屋であれ見つけた時も何も聞いてこねえし、やっぱ気にも留めねえかってさ」
そんなことはない、実はものすごく気になっていたんだと言えたら啓介はどんな顔をするだろう。
「けどあんな話、オレにしてくれるとは思ってなかったから……実はちょっと感動してる」
「オレなんかの話そんなたいそうなもんじゃ、ていうかオレの方こそ、すげーびっくりしてますよ」
両手を団扇のようにして熱くなった頬に風を送る。
「何だよ照れてんのか? おまえのそんな顔、初めて見た気がする」
「照れてないです」
「いや、顔赤いぜ」
啓介のことを意識しすぎている自覚は多少はあった。同じチームの良きライバルとして、涼介とはまた違った面ですごい人だという目で見ているものとばかり思っていた。
だが笑顔を見るだけで照れくさいというのはチームメイトに抱く感情の範疇を越えている気がする。
昔の彼女との思い出話に嫉妬したり、忌憚なく話せるあの女性を羨ましいと思ったことも、どれもこれも行きつく先は一つのような気がする。
「と、とにかくオレは、今は涼介さんに認めてもらえる走りができたら嬉しい、認められたいって必死なだけです」
「はー? 藤原が走るのはアニキのためだけなのかよ」
「そうじゃないです。啓介さんに負けたくないって思いが一番強いですよ」
「オレも同じだ。おまえの走りはすげー意識しちまう」
もはやチームメイトやライバルというだけの存在ではない。それ以外の感情が湧き上がっていることを認めざるを得ない。
結果を出す。自分にできる精いっぱいの限界を、もっと広げていくしかない。
──おまえに勝ってプロを目指す──
いつかの啓介の台詞が胸を打つ。
啓介はいずれ自分を負かすかもしれない。そんな思いは常にある。
きっと、啓介は勝てばもう拓海のことなど見向きもしないで先へと進んでいくだろう。負けるつもりは拓海にだって毛頭ないが、啓介にとっての過去に、終わった話になりたくない。そんな恐怖にも似た思いが蔓のように拓海を絡め取っていく。
この先ずっと仲間でもライバルのままでもいい。そうすれば負けない限りは隣に立って啓介と同じ景色を見ていられるのだ。
唇を噛みしめたまま、膝の上で空になったチューブを握りしめる。啓介がそれをすくい取るようにしてごみ箱代わりのビニール袋に放り投げた。
「今度海行くか?」
「えっ」
「FD狭いし、アニキいるとナンパがうぜーから二人になるけど」
「あ、え?」
「今夜のバトルも絶対勝てよ。負けたらオゴリな」
屈託のない笑顔を向けられ、拓海は固まった。
「ぜ、絶対勝ちます」
何とかそれだけを答えて窓の外に視線をやった。
高鳴る鼓動を打ち消すように、ゴトゴトと後ろの荷物が音を立てる。熱を持った頬に手の甲を当てながら、このまま時間が止まればいいのになんてことを少しだけ考えた。
2016-10-15
サイト4周年記念のリクエスト。「過去の女性絡みの嫉妬からの恋心自覚。」でした。リクありがとうございました! back