星降る夜に
今までの短い人生の中で一番と言っていいほどの衝撃の出会いがあった。
春の終わりか、夏の初めだったか、始まりは定かではなかった。何がどう転んでそうなったのか、その人物と付き合うことになった。
自分は男で、相手も男だ。ギラつくライバル心でもって接してくることが恒だった相手からの告白は、拓海にとってはまさに青天の霹靂というやつだ。
自分が同性に惹かれているという事実が未だに信じられないという思いがないこともない。熱いまなざしに射抜かれ、勢いに飲まれ流された一面があったことも否定はできない。でもすべて拓海自身の選択だ。そこにまだ少し戸惑う。
それなのに今まで知らなかった甘く柔らかい空気をまとった男に、居心地の良さを見出してしまった。顔を見れば離れがたいと思ってしまうほどには、啓介は拓海の中に強烈に入り込んでいる。
予定があるというのだから無理に会う必要はないと思っていた。
それでも今夜は会いたいと電話口で縋りつかれ、拓海は口元に浮かんだ笑みに気づかれないようため息とともに恋人の喜ぶ返事をしてやった。夕食を終えてすぐのことだった。
数日前の雨とは打って変わって七夕の今夜は見事な晴れで、紺色の空に薄いグレーの雲が浮いている。月より星の瞬きがよく見える。約束の時間を十五分ほど回ったところで、聞きなれたエキゾーストが近づいてくる。
「ふっじわらー。何見てんだ?」
遅刻の詫びもそこそこに軽やかな足取りで近づいた啓介が、拓海の肩越しに顔を覗かせる。秋名湖のほとりでハチロクのルーフに伏せるようにして佇んでいた拓海の手の中には、一枚の写真。
「って、おま……っ、それどこで手に入れたんだよ? 返せ」
啓介が顔を赤くしながら拓海の手から取り上げようとする。それをひらりと躱して背中に隠すように手を後ろに回した。
啓介は恨めしそうに、恥ずかしそうに唇を突き出している。拓海は啓介に背を向け、もう一度手の中の写真に視線を落とした。後ろで何かをわめいているが、聞こえないふりをする。
「聞いてんのかよ、藤原ッ」
がばりとのしかかってくる啓介の重みを受けてよろめくが、支えてくれるだろうことは分かっている。ポロシャツ越しの熱を感じながら、鼓動が速くなるのを自覚した。
「これはオレのです。返せってのはおかしいですね」
「だっておまえ、それ、なんで」
「涼介さんからもらいました」
「ハァ~?!」
「啓介さんにもこーんなカワイイ時期があったんですねぇ」
ピラピラと写真を振りながら流し目を送ればさらに照れたように啓介の顔が赤くなった。いつも余裕綽々な啓介の鼻をあかしてやったという事実に、拓海は内心ほくそ笑む。
写真の中には、プレゼントらしくリボンが掛けられた大きな車のおもちゃを抱きしめて満面の笑みを浮かべる啓介がいる。黄色いタンクトップ姿で、裾からオムツが見えているのだ。柔らかそうな髪は色素も薄く、思わず撫でたくなる。
啓介は、拓海の手から取り上げることは諦めて、でも大きな手で隠そうとしている。
「何でアニキがこんなもんおまえにやるんだよ」
「……お詫びにやるよって」
「詫び? 何で?」
「……覚えてないんですよね、やっぱり」
「は? オレ?」
耳元で啓介が言葉を発するたびにゾクゾクと広がる昂揚感に耐えながら、拓海は一つ小さなため息をついた。
「この前の勉強会が終わって速攻で啓介さん寝ちゃったじゃないですか」
「う、それは悪かったって……自分ちだったからつい、さ」
「や、別にそれはいいんですけど、そのあと少し涼介さんと話してたときに……」
「話してた時に?」
言い淀むと、啓介は恐る恐るといった口調で続きを促してくる。拓海は言いかけた手前、その話題を引っ込めるのもおかしい気がして話を続けた。
「……オレに抱きついて、寝言で『アニキ』って……」
その日のことを思い出しながら、拓海は苦い顔をした。笑い飛ばせばよかったのに、なぜだかそうできなかったのだ。
気まずさと悔しさと恥ずかしさ、いろいろな感情が嵐のように吹き荒れた。家族なのに、しかも啓介が絶大な信頼を寄せる涼介に嫉妬を覚えるなんて、どうかしている。
拓海がよほど複雑な顔をしていたのか、見かねた涼介がわざわざアルバムを取り出してきてその写真をくれたのだ。
かいつまんで事情を話すと、啓介は拓海を抱きしめたまま肩口に頭を落とし、大きく息を吐き出した。抱き締めている腕に力が入り、拓海は抵抗せずに啓介に背中を預ける。
「誓って言うけど、別にアニキと一緒に寝てるわけじゃねーからな」
そこなのか? という疑問を拓海はぐっと飲み込んだ。
黙りこくった拓海に啓介は何を思ったのか、右頬に触れる吐息が唇に変わった。掠めるだけのそれを、拓海は振りほどけずに目を閉じて享受する。
「オレは藤原だけだかんな」
吐息で告げられ、拓海は腕の中で身じろいで啓介に向き合い、愛しい男の顔を見上げた。照れたように頬を染めながら、でも啓介は小声でマジだぜと言ってキスをした。
唇を合わせたままごそごそと動き始めたと思ったら、啓介はポケットから取り出した携帯電話を頭上にかざした。
「え、何、してんですか」
「どうせなら今のオレの写真持っとけよ。ていうかオレも藤原の写真ほしい」
あっと言う間もなくシャッターが切られた。再び後ろから抱きしめれらた状態で、何度も撮影される。離せよとバタついても、片手で拘束されているのとむき出しの写真がしわくちゃになりそうでうまく逃げられなかった。
「こら、動くとブレるだろーが」
星が出ていると言っても辺りは暗く、肉眼では相手の顔も不自由なく見られるが、外灯の光量だけではブレているどころかちゃんと写っているのか怪しいほどの写真しか撮れないというのに、啓介があまりにも枚数を撮るから、だんだん可笑しくなって思わず笑ってしまった。
傍から見れば何をしているんだと呆れられそうなほど、二人して爆笑しながら何度も写真を撮った。
「もー、ほとんど写ってないじゃないですかー」
笑い疲れて目に浮かんだ涙を指で拭うと、いきなり後頭部を固定されて深く口づけられた。
「んっ、啓介さ……」
流れ星が見えそうなほどの夜空を背にした至極真面目な顔の啓介を前に、拓海は言葉に詰まった。
「やっぱ返してくれよ、ソレ」
「──。嫌ですよ、もうオレのです」
割と気に入っているのだ。
今とは違う、あどけなさや可愛らしさという言葉がこれほど似合う啓介を。自分の知らない、知る術もなかった幼い頃の啓介を。
「あ、……その、別に誰にも見せたりしませんから」
しゅんと落ち込む啓介に、焦ってそんな弁解をする。問題はそこじゃないんだと大げさにため息をつく啓介が、小さく文句をこぼしながら後頭部をガシガシと掻きむしる。
心なしか頬が赤くなっているようだ。
「わーったよ。けど、もう外で見るなよ。オレの前でも。絶対だぞ」
指先で鼻の頭をつつかれて、拓海は啓介を見上げながら静かにうなずいた。
「約束な」
安堵したようにパッと笑顔になった啓介に、拓海は釘付けになった。そして慌てて小さな写真で顔を隠すようにして下を向く。啓介は正面から拓海を抱きしめ、栗色の髪をそっと撫でた。
車のおもちゃを大事そうに抱えて笑う啓介と、今自分をぎゅっと抱きしめている啓介の笑顔が、不思議なほどにシンクロしている。
今とは違うと言っても、やはり面影は残っている。啓介は啓介だ。言葉にせずとも好きなものを全身で好きと伝えるその表情は、幾つの啓介であっても変わらない。
「けどさ、藤原。今は写真よりコッチ見ろよ」
啓介は拗ねたように唇をつきだし、手に持っていた写真を取り上げると拓海の後ろポケットに押し込んだ。
まさか自分の写真に嫉妬したとでも言うのか?
自意識過剰なわけでも、自惚れているわけでもないが、ふとそんな考えが頭をよぎった。拓海は赤面していく己の顔の熱さを感じ、そして自分の思考に居た堪れなくなった。
顔を隠すように啓介の肩に額を擦りつけ、手探りで髪を撫でた。
「な、それもっとシて」
もう決して逃げられない。完全に囚われてしまった。
笑顔だけで心を鷲掴みにする恋人に、悔し紛れにキスを送った。
2015-07-07
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