恋とシチュー

 春から本格的に始動する県外遠征チームに参加を決めた藤原拓海は、峠の封鎖が解除されるまでの間もこまめに高崎へと足を運んでいた。 チームリーダーである涼介直々の指導を受けるためだ。主に理論のほうの。
 拓海は昔から座学よりは体を動かす方が得意だった。車を運転するようになってからも、これまで感覚だけでやってきたと言っていい。繰り返しの練習を体が覚えていくのだ。
 速い方が勝つ。答えは単純明快だが、そこに至るまでの過程でいずれは知識も必要になってくると涼介は言う。感覚だけで勝ち続ける方が不思議なのだとも。
 黙々と己の走りに集中するだけではない環境に最初は戸惑いも多かったが、意味さえ分からない単語も用語も次第に覚えられるようになって、走りに活かせるようにもなってきた。 それは涼介の指導の賜物と言ってもいいが、それだけではなかった。拓海にとって涼介と同じくらいに影響を受ける人物がこのチームにはいるのだ。
「こう寒いと鍋食いたくなるな」
 高橋啓介。ヤンキー然としているが涼介の実弟で、名実ともにプロジェクトのエースの一人でもある。
 近寄りがたそうな見た目とは裏腹に当人の周りにはたいてい人がいる。そんな彼はふとした瞬間に拓海に話しかけてくる。 担当メカニックである松本が作業に集中しているときはおおかた一人でいる拓海を不憫にでも思っているのだろう。白い息を吐きながら世間話を持ち掛けられる回数が最近は増えている気がする。
「そうですね」
 商魂たくましくそれならうちの豆腐どうですかとでも言えばいいものを、無難な返答しかできないのは今に始まったことではない。 だが啓介はそんな拓海をさして気に止める様子もなく、隣に立ってその日の講義についてや涼介の家での様子などを話し始める。啓介は口数が多いわけではないのに、雑談が得意なようだった。
 意外にも表情が豊かな啓介を見るこの時間がだんだん楽しみになっている。いい意味での緊張感に包まれたプロジェクトの空気も好きではあったが、その中にあるひと時は唯一リラックスができる時間と言ってもよかった。
「あー、でもシチューもいいな」
「シチューか。最近食べてないなー」
「おまえビーフとクリーム、どっち派?」
「え? どっちってのは特に」
 和食が基本の藤原家ではシチュー自体あまり食卓に並ぶことはないが、それでも大半はクリームシチューで、豆乳が使われていたような気がする。そんなことを思い返していると啓介が続ける。
「オレ、冬はクリームシチュー食いたくなるんだよな。つーか腹減ってきたな」
「ははっ。それは分かる気がします」
 思わず笑いがこぼれた。啓介の振り返った気配を感じ、拓海は咳払いでごまかしながら啓介とは反対側に視線を逃がした。

 寄合の新年会があるから夕飯は自分で何とかしろとの指令が父、文太から下されたある金曜日、拓海は所用を済ませたあとスーパーに立ち寄った。イツキを誘ってどこかへ食べに行くと言う手もあったが、何となくそうする気分ではなかった。 入口から流れに沿って店内を見て回り、ひとり分だし適当に炒め物でも作ればいいかと鮮やかな人参を眺めていると、ふと先週のプロジェクトでの集まりで啓介が言っていたことを思い出した。
(そうだ、シチューにしよう)
 多めに作れば明日はグラタンもできるなと手に持ったカゴへ野菜と肉を入れていく。調味料はそれなりに揃っているはずだ。必要最低限の物だけを買って家路についた。
 すっかり冷えた台所に立ち、肉や野菜を切って下ごしらえを始める。以前、野菜を茹でるのはレンジを使えば時短になるのだと事務の女性が話していたのを思い出す。 年季の入った電子レンジに耐熱ボウルを入れてスイッチを押し、その間に大きめの鍋をコンロに置いた。鶏肉と玉ねぎを炒め、薄力粉を加えて炒める。牛乳代わりの豆乳と水、コンソメの素を入れて蓋をする。 沸騰するのを待つ間に使い終わった調理器具を洗って、あとはただ鍋の中を時々混ぜながらぼんやりと煮えるのを眺めていた。
 コトコトと煮えるシチューを見ていると、なぜだかわからないが再び啓介の顔が浮かんできた。明日はプロジェクトの集まりがあるせいだろうかとぼんやり考えながらお玉を手に取った。 啓介はもうシチューを食べただろうか。そんなことを思った。
「あちち」
 小皿にすくって味見をし、熱さをごまかすように唇を指先で擦る。 仕上げとばかりにブロッコリーを加え、あとひと煮立ちすれば完成だ。炊きあがった白米を茶碗によそい、箸やスプーンと一緒にちゃぶ台へと運ぶ。火にかけたままの鍋を見に戻ろうとしたとき、拓海の携帯が鳴った。 ポケットから取り出しながらコンロの前に戻る。液晶を見れば高橋啓介と表示されている。
「もしもし」
『あ、藤原か? もう飯食った?』
「え、いやまだ」
『じゃあ飯行かねえか?』
「あ、……すいません、今作ったとこで」
『うっそ、悪い、電話遅かったかー』
「そんな、オレこそすみません。せっかく誘ってくれたのに」
『おまえが謝ることねーじゃん』
 受話器の向こうで笑い声に変わる。 電話を左手に持ち替え、お玉でシチューをかき混ぜ、我ながらいい出来、いい匂いだと目を閉じた。
『今日の晩飯、何?』
 まるで新婚カップルの会話のようだと思って、慌ててその考えを打ち消した。
「……シチューですけど」
『……藤原、まさかオレのために』
「残念ですが違います」
『ちぇ。言ってみただけだろうが』
 そう言った顔が想像できてしまい、拓海はくすっと笑った。
『なに笑ってんだよ』
「いえ、それにしてもすごいタイミングだなって思って。ちょうどでき上がったとこなんですよ。どこかで見てたんですか」
『あー、まあ近所までは来てた』
「え?」
『何とかっつー商店街の看板見えてるし』
「えぇー?」
『飯時に悪かったな。じゃ、また明日Dでな』
「ちょ、ちょっと啓介さん」
 冗談のつもりだったのにまさか本当に近所にいるだなんて、それを聞いて帰してしまうような真似はできないと瞬時に思った。
「あのー、飯まだなんですよね? オレの作ったのでよければご馳走しますよ」
『え、マジで? ……あ、まさか本当にオレのため』
「だから違いますって。たまたまです、本当、偶然にも。今日は親父もいないんでオレ一人だし」
 啓介を思い出してシチューに決めたという点は何となく言いづらいので秘密にしておく。 店までの道のりを伝えて電話を切ると、食器棚の前に立つ。客用の小洒落た皿などこの家にはきっとない。シンプルな白い皿を手に取り、シチューをよそう。
 ちゃぶ台に並んだ二人分の食事。いつもと同じ光景だというのに少し心が浮足立っているような気がする。ちっとも落ち着かず、正座で啓介の到着を待ったりしている。
「何だよ、これ」
 ハッと我に返り、みるみる顔が熱くなるような気がして、拓海は頭を抱えた。
「落ち着け、オレ。これは初めて人に料理を食べさせるという緊張であって啓介さんが来るからってわけじゃ」
 などと自分に言い聞かせるようにひとりでぐるぐるしていると聞き慣れたエキゾーストノートが耳に入ってきた。軒先へ出るとちょうどエンジンが切られるところだった。 運転席から降り立った啓介は拓海を見つけると嬉しそうに笑った。
「よ。ご相伴に与りに来たぜ」
「味の保証はないですけど、どうぞ」
「うわ、こたつじゃん!」
 暖房を効かせた部屋に啓介を通すと、啓介はまるで子供のように目を輝かせた。
「これ、お礼ってことであとで食ってくれ」
 いつの間に用意したのか、啓介は有名なシュークリーム店の袋を手に持っていた。
「こんな高そうなの、いいんですか?」
「急に夕飯たかりに来たんだぜ。遠慮なく受け取ってくれ。つーかこれ、もう食っていい? スゲーうまそうじゃん」
「あの、本当自分が食うためだけに作ったんで味とか文句言わないでくださいよ」
「言うかよ」
 啓介はいただきますと神妙な顔つきで言い、一口頬張った。拓海は反応を待ってごくりと生唾を飲み込む。啓介は黙ったまま片手で目頭を押さえた。やはり舌が肥えているだろう相手に出すような腕前ではなかったということだろうか。
「あの、啓介さ」
「すげー久しぶりに家庭料理食ったって感じ」
 啓介は感動しきりといった表情で食べ進めていく。見事な食べっぷりだが所作はさすがといったところだ。 気に入ってくれたようだとほっとして、拓海もシチューに手を伸ばした。
「ごちそうさまでした」
 丁寧に両手を合わせた啓介は満面の笑みを見せた。拓海もつられて笑い、照れくさくてうつむいた。
「そういえば何で急にこっちに? 用事でもあったんですか?」
「ああ、藤原に聞きたいことがあって」
「……車のことならオレなんかより」
「そっちじゃねえよ」
「じゃあなんですか?」
「いや聞きたいっつーかどっちかっていうと……」
「先にコーヒー淹れてきます。インスタントしかないけど」
 拓海をじっと見つめたまま珍しく言い淀む啓介を前に、ひとまず食器を下げることにした。 慣れた手つきで二人分の食器を流しに運び、ついでにやかんを火に掛けインスタントコーヒーの瓶を手に取った。
 気のせいだとは思うが今戻るのはなぜか気まずい。湯が沸くまでの間に食器を洗っておこうと自分に言い訳をして、蛇口をひねる。 冷たい水のまま食器を洗い終えたところでちょうど湯が沸き、感覚が鈍くなった赤い指先でコンロの火を止める。瓶の口に手を掛けたらその手に温もりが重なった。
「え」
「うわ、めちゃめちゃ冷えてるじゃねえか」
 啓介は拓海の両手をつかむと熱い息を吹きかけ、ごしごしとさすった。
「うわわ、何恥ずかしいことしてるんですかっ」
 両手を取られたまま拓海の顔はどんどん赤くなる。 狭い台所に並んで立つのも恥ずかしいが、それ以上に今の行為は顔から火が出そうなほど恥ずかしい。いくらなんでも男同士のスキンシップの度を超えている。
 啓介の手を振り払おうと力をこめると、それ以上の力でぐっと手をつかまれてしまった。
「ちょっと、啓介さん」
 冗談にしては表情が読めなさすぎて、嫌な緊張が漂ってくる。 自分のより少し大きな手は温かく、指先にほんのり熱が巡った頃に啓介が口を開いた。
「付き合ってほしい」
「……えっ」
 どこまで、と軽口を言える空気ではなかった。 見たこともないような真剣な顔で、まっすぐに拓海を見つめてくる。啓介がまるで知らない男のように思えて、だけどつながれた手がかすかに震えていて、見上げれば啓介は緊張と不安に包まれたような眼をしていた。
 付き合う、というのは男女でいうところのアレと同じ意味なのだろうか。啓介は拓海をそんな目で見ていたというのだろうか。いやまさか、そんなバカなという思いだけが駆け巡り、拓海の思考は思うようにまとまらない。
「すぐに断られると思ってたんだけど、もしかして脈ありって思っていいのか?」
「え、え、いや、ちょっと混乱して、いきなり、だったんで」
「ちょっとでも可能性あるなら考えてくれねーか」
「啓介さ、……っ」
「いやなら突き飛ばしてくれていい」
 啓介に抱きしめられている。しかも自宅の台所で。 見慣れた風景の中にいるのに、自分がここに存在していないかのような不思議な感覚だった。誰かに抱きしめられることなどいつ以来だろうか。拓海は硬直したまま啓介の腕の中に収まっている。
 いったい何が起こっているというのか。拓海は頭が真っ白になった。いやだと思う気持ちはないが、だからと言って嬉しいという感情でもない。ただ驚き、そしてただ、じわじわとぬくもりが体中に広がっていく。
 トクトクと、少し速い鼓動が伝わってくる。啓介の息遣いと熱を間近に感じていると、弱火で煮込まれている野菜のような気分になってきた。温められて溶かされて、トロトロにされていくような、これ以上は危ない感覚だ。
「あ、あの」
 身じろいで啓介の顔を覗き込む。鼻先が触れる距離で、思わずその顔に釘付けになった。視線が絡んで、動けない。言葉も音になって出てこない。長い睫毛の影が揺れる。啓介の手が、拓海の腰をそっと抱き寄せた。 しまったと思った時にはもう手遅れで、きつく閉じた唇を優しくなでるように触れる熱が体の自由を奪うように浸食してくる。力強い抱擁とは裏腹な優しいキスが、拓海の心を絡めとっていく。
「啓介さん」
 思わず名前を呼ぶと、啓介はふと動きを止めて拓海に視線を合わせてきた。不安にまみれていた眼は愛しさにあふれていた。
「……手、早すぎませんか」
「本当はそんなつもりなかったんだぜ。けど藤原が嫌がんねーから」
「そんな暇くれなかったじゃないですか」
「あっても逃げなかっただろ」
 そう言いながら軽いキスをして、嬉しそうに笑った。恥ずかしさにいたたまれず、拓海は腕を伸ばして啓介の拘束から逃れた。
「と、とりあえずコーヒー淹れるんで、あっ、ほら、ここ寒いでしょう。こたつ入っててくださいっ」
 啓介の体をひっくり返して台所から追い払うように背中をぐいぐいと押す。
「それを言うなら藤原も寒いだろー」
「オレは慣れてるんで平気です、全然」
 手のひらの先の重みがするりとなくなり、啓介が俊敏な動きで拓海の背後を取った。
「うわぁあっ」
「ほらコーヒー淹れてる間こうして温めててやるから」
「いいいりませんって」
「遠慮すんなよ」
「本当に大丈夫ですから、あっち行っててください」
 慣れない後ろからのハグに鼓動が速くなっていく。啓介の大きな手が拓海の顔を強引に振り向かせた。苦しい角度に眉根を寄せると唇に柔らかいぬくもりが触れた。
「あっ?」
「大好き、藤原」
 啓介はそれだけ告げると大人しく引き下がった。台所に残された拓海は腰が抜けたように脱力し、倒れまいと必死にシンクの縁をつかんだ。
(何なんだ、あの人……! いつもと全然違うじゃん……ッ)
 何とか平静を装いコーヒーと土産にもらったシュークリームを持って居間に戻る。啓介はこたつで拓海を待っていた。斜め向かいに腰を下ろし、こたつ布団の中に両手を突っ込んだ。冷えた指先にじんわりと熱が伝わってほっと息を吐く。
「さっきの、本気なんですか?」
 啓介は頬杖をついて拓海を見つめている。その視線に耐えきれず、ぶっきらぼうに言いながらシュークリームを手に取る。啓介はコーヒーを一口飲んだ。
「さっきのって?」
「だからその、さっきの……」
「好きって言ったこと?」
 齧りついたところからたっぷりのクリームがはみ出してこぼれ落ちた。高くて美味しいはずのシュークリームも動揺のせいか味がよく分からない。
「あーあ、もったいねぇ」
 啓介はティッシュでふき取りながら言葉を続ける。
「オレは藤原のことが好きだし付き合いたいって思ってるよ」
「そ、うですか」
 あまりにあっさりと繰り返され、拓海は照れくささにうつむいた。
「オレたち、うまくやっていけると思うんだけどな」
「そんなことわからないじゃないですか。第一、男同士ですよ」
「キスまでしといて」
「あれは啓介さんが無理やり」
「無理やりだったか? 本当に?」
 そう言われれば、確かにそうではないような気がしないでもない。逃げようと思えば逃げられたし、拒否すればきっと啓介は引いてくれただろう。
「オレは啓介さんのこと結構尊敬してるし、涼介さんも含めてすげー人たちだなって思ってます。好きか嫌いかで言えば好きです。でも啓介さんと同じ意味かって言われると、違うような気がします」
「だから、ちょっとでも可能性あるなら考えてくれって言ってんの」
「その言い方ずるくないですか?」
「なんで? 100パー無理ならそう言ってくれればいい話じゃねえか。すっぱり振ってくれればこの話はそれで終わり。付きまとったりもしねえしDの活動には影響させねえよ?」
「それはそうですけど」
「だからさ、考えてみてくれよ。明日までに」
「あ、明日?」
「今すぐでもいいぜ」
「そんなむちゃくちゃな」
「友達みてーな好きからでもさ、じっくり恋に育っていくかもしれねーじゃん」
「始まりがそんなんでいいんですかね」
 拓海はため息交じりに言いながらマグカップに口をつけた。
「なぁ藤原」
「なんですか啓介さん」
「今日のもすげー美味かったけどさ。今度はビーフシチュー作って」
 破壊力抜群の笑顔と声でそう言われ、思わず固まった。
「……材料は啓介さん持ちですよ」
 拓海は赤くなる顔をごまかすようにさらにコーヒーをあおった。
「オッケーまかせろ。いい肉食わせてやるよ」
 啓介はご機嫌な様子でコーヒーを飲み干すと、壁の時計を見上げて腰を上げた。拓海も立ち上がり、見送りがてら後ろについていく。厨房に下りている啓介を見下ろす形で、拓海は暖簾に片手を添えた。
「今日はありがとな。ご馳走様」
「いえ」
 啓介が無言のまま指先で手招きしている。腰を屈めると鼻先で啓介の香りが漂い、気づけばキスをされていた。両頬を包まれ、唇を啄まれている。 また勝手にと言いかけて、だけど啓介の幸せそうな顔を見つけて何も言えなくなった。
 今でさえ何度キスをされてもその手を振りほどく気にはなれないのだ。 啓介の言う通り、もしかしたら今のこの気持ちが恋へと育っていくのかもしれない。コトコト煮込むシチューのように、ゆっくりと時間をかければ愛情が芽生える可能性は十分だ。 先のことはわからないが、そんな道もあるのかもしれないと、拓海は啓介の首に手を回し、そっと目を閉じた。

2016-12-30

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