さわって

 やべー、キスしたい。

 高橋邸のリビングで、啓介と次の遠征先のビデオを見ながら拓海は歯噛みした。
 拓海の左隣で啓介はヒルクライムのコースが流れる画面に見入っている。 きっとコース攻略のポイントなどを必死に掴もうとしているに違いない。なのに自分はそれどころではなく、正面の画面よりも隣に意識が向かっている。
 何がきっかけと言うわけでもない。ただ真剣なその横顔を見ていたら、ふいにそういう気分になったのだ。情けない。
 自己嫌悪に陥りながらソファに浅く腰かけて膝を抱くと背もたれに沈み込んだ。
「藤原?」
 姿勢を変えた拓海に気付いた啓介が向き直る。
「……」
 視線だけを送り、すぐに抱いた膝に顔を隠した。
「どうしたよ」
 めちゃめちゃキスしたいです、とは言えない拓海は何でもないと頭を振り、両手の指先でラグランスリーブの袖を握る。 啓介はビデオを止めて体の向きを変えると拓海の髪を梳いた。
「集中できてねーな」
「……すみません」
 咎めるような口調でもないのに謝罪の言葉が口をつく。
「何謝ってんだよ」
「……すみません」
 啓介の手を止めてる場合ではないのに。邪魔をしたいわけじゃないのに。口にしたい気持ちは喉を通り過ぎるのを拒んで結局同じ言葉を繰り返し、唇を噛んだ。
「あの、……、啓介さん」
「ん? なに」
「あの……」
 パクパクと口を動かすだけの拓海に啓介が笑みを浮かべながら梳いた髪に鼻先を埋めるように近づくと、拓海は抱いていた脚を解いて啓介の体に手を伸ばす。
「おっと……」
 バランスを崩して倒れてくる啓介の首筋に顔を寄せると、煙草と香水と、少し汗が混じった啓介の匂いがすぐ間近に感じられ、無意識にほっと息を吐いた。 そのままソファに押し倒される格好になっても、拓海は啓介から手を離さなかった。
「息抜き、するか?」
 耳元で囁く言葉に頷き、抱きしめる腕に力を込めると冗談のつもりだったのか啓介が少し驚いたように顔を上げた。
「……したいです」
 意志を持って啓介の視線を捕らえる。頬が熱くて、きっと耳まで真っ赤に違いない。
 啓介の指が目元を優しく撫でるとそのまま両頬が包まれ、ゆっくりと近づいてくる。 吐息がかかる距離で、啓介が口を開いた。
「ハワイ土産だとかでダチから貰ったチョコあるんだけど、食う?」
「え……っ」
 閉じかけていた目を開いて、啓介を見る。 からかわれたのだろうというのはその顔を見れば一目瞭然だったが、期待が高まっていた分、落胆の色を誤魔化しきれない。その素直さに、啓介が肩を揺らした。
「そんなに拗ねんなよ」
 そう囁くのと口づけられるのはほぼ同時で。許せない。人の気持ちを弄ぶみたいに。抗議の言葉は啓介の舌に絡め取られた。
「ふ……、ぅんッ」
 上下の唇を食まれ、舌を吸われ、くすぐるように歯列をなぞられる。ぞくぞくと背筋を駆け抜ける感覚から逃げるように、啓介の背中に回した腕に力をこめる。 飲み込みきれない唾液が口端をこぼれ落ちていく。
 官能の波に流されていく中、閑静な住宅街には不釣り合いな、かすかに聞こえてくる音に我に帰り啓介の胸元を押し返す。
「けぇすけさん……、あのっ」
「……おまえ、あの音で気付くのかよ」
 不満そうに唇を尖らせ、押し倒した拓海の上から体を起してソファに腰を下ろした啓介は、テーブルに置いた煙草に手を伸ばす。
「気付くって……」
「そーだよ、あの音はアニキのFC。間違いねぇ」
 がしがしと乱暴に頭を掻きながら紫煙とともに大きなため息を吐き出した。
「今夜は帰ってこねーって言ってたのにアニキのやつ」
 眉根を寄せてもう一度大きく吸って、尖らせた唇の先から勢いをつけて煙を吐き出す。まだ長く残る煙草をもみ消して拓海の手を取ると、制止の声をかける間もなく階段を駆け上がる。 啓介に連れられ、部屋に入るとそのままベッドへと組み敷かれてしまった。
「なんで分かった?」
 覆いかぶさる啓介は真面目な顔で見下ろし、片手で拓海の前髪を梳いた。
「ただ反射で……」
 咄嗟にそう答えたものの、その音が涼介の車の音だと分かったわけではない。自分が分かるのはせいぜい父親が運転するハチロクが家に帰ってくるときの音くらいだ。 聞き慣れた、それっぽい車の音がしたからだと言うだけなのに。
 啓介のほうこそ、意識が飛びそうになるあんなキスをしながら、はるか遠くのエキゾーストをそれが涼介のものだと聞き分ける。 そんな自分のことは棚上げで拓海を責めるように見つめている。
「なんか、妬ける」
 ぽつりと呟いた拓海の言葉に、啓介の目が揺らめいた。
「啓介さんばっか……余裕で……なんか、ずりぃ」
 タイムリミットが迫るように、すぐそこまで白いFCの音が近づいている。
 困惑の表情を浮かべる啓介の顔を両手で引き寄せ、キスをした。
「ふじ……」
 もう少し、あともう少しだけ。
 そんな言葉を念じて、続きを遮るように唇を塞いだ。
 窓の外では涼介のFCが滑らかにガレージに納まり、アイドリングの音が止まる。 そういえば啓介に言われるままFDの横にハチロクを停めてしまったことを思い出し、啓介の唇を感じながら何となく後ろめたい気分になった。
「……っは……、ぁ……」
 目の前にある、見た目より柔らかい唇が唾液で濡れて、指先でその輪郭をなぞると啓介の舌が拓海の指に絡みつき、ちゅぷ、と音を立てながら薬指が啓介の口内に飲み込まれていった。
「…………」
 啓介と視線を合わせたまま吸い付いて絡んでくる舌から逃れ、啓介の口から指を引き抜いて代わりに軽く口づけると、視線を下ろして服の裾で濡れたそこを拭った。
「べちょべちょ……」
 唇を尖らせればそこに啓介がまた軽く口づけ、首筋や鎖骨にも舌を這わす。その感触にびくりと体を震わせるのとほぼ同時に、隣の部屋のドアが開く音がする。
「ぁ……、啓介さ……ッ」
 今の音で涼介が部屋に入ったのは啓介も分かったはずだ。それなのに、小声で制しても啓介は構わず拓海への愛撫を繰り返している。
「啓介さんっ」
 覆いかぶさる啓介の肩を揺り動かしてやっと動きを止めた。
「残念ながら部屋にチョコはねーけど、チョコ味のゴムならあるぜ」
「……それもお土産ですか?」
 唐突な話題に面喰いつつも、間がもつなら何でもいいやと赤い顔を隠す余裕もなく啓介にじっと見つめられたまま言葉を繋ぐ。
「そ。セットでってな。ハワイ土産かどうかは嘘くせーけど……使ってみるか」
「え、……えッ、今?!」
 いたずらっぽく舌舐めずりをする啓介に動きを封じられ、さらに深く深く口づけられた。
「ん、んん……っ」
 両腕を押さえつけるように抱きしめられて思うように抵抗できず、舌先で上顎をくすぐられると体の力が抜けてしまう。
「ん、はぅ……っ」
 腕の強張りが解け、枕に後頭部を沈み込ませると追ってくるように啓介が体重をかけてくる。抵抗を止めた体は解放され、無意識に啓介の背に手を回した。長い指が優しく髪を梳き、顔の輪郭を辿って下りてくる。 指が唇に触れたとき、拓海は啓介の背中をさすりながら呟いた。
「……絶対いやですよ、オレ」
 隣の部屋には涼介がいると言うのに。
「なんで」
「だって……そりゃ、声、とか……」
 自分の言葉に照れて、片手で口元を覆った。
「我慢できねーから?」
 手の甲に口づけて自信たっぷりに問いかける啓介に、悔しいながらも頷いた。
 声なんて出したくて出してるわけじゃない。 できるなら啓介にだって聞かせたくない。なのに堪えようとしても啓介のせいでどうしても堪えきれないのだ。
「…………クソ、あんた本当にムカつく」
 間近に迫る整った顔を両手で挟み、口づけた。
「絶対、これ以上のことはしねーからな」
 キスの合間にそう畳みかけては、何度も啓介の唇を啄ばんだ。
「ふ……っ、それじゃあ逆にしてくれって言ってるみてーだけど?」
「ちが……ッ、本当にダメだからな」
 拓海は慌てて体を起こして啓介に馬乗りになった。 何もしねーよと言うように無防備に両手を上げて拓海を見上げる啓介は、この状況をただ楽しんでいるように微笑んでいる。 拓海は念のためだからと心の内で自分に言い訳をして、啓介の手を封じるように両手を重ね、ゆっくりと指先を絡めた。啓介はされるがままその手を握り返し、けれど視線は外さずに拓海を見つめている。
「…………」
 なるべくスプリングが軋む音を立てないように身を屈め、形の良い唇に自分のそれを重ねるとただ触れるだけのキスを繰り返し、照れくささに耐えかねて顔を隠すように枕に額を擦り付けた。
「なあ藤原、この状態で本当に何もしねーつもりか?」
 天井に向かって呟く啓介の言葉が耳に下りてくる。拓海にしたってそのつもりがなかったわけではない。 現にコースのビデオに集中できず、啓介の手を止めてしまったのは拓海のほうだ。
「……だって、絶対むりです」
「アニキがいるから?」
「……っ」
 否定できない自分を恨めしく思いながら、それでも違うと首を横に振る。
「あんがい、徹夜続きで今頃ぐっすり夢の中かもしれねーぜ?」
 啓介が少し顔を動かすと唇が耳に触れた。 吹きかけられる息に背筋にゾワゾワとしたものが走り、思わず体を起こした。
「けどあのっ、オレ……啓介さんとキ……キ、……スすんの結構好きっていうか……それで十分っていうか……」
 言い終わる前にぐるりと視界がまわり、またも啓介に組み敷かれる格好になった。
 隣の部屋にいる涼介に聞かれてしまうかもしれないという緊張感と、これから起こることへの期待感で鼓動が速くなる。
「……オレが我慢できねー」
 啓介は熱っぽく囁き、それでもまだ拒もうとする拓海の唇を塞ぐと布団の中へ潜り込んで上掛けを頭の上までかぶせた。 申し訳程度の防御壁の中、啓介のキスはどんどんと深くなる。
「啓介さん、マジ、で……?」
「ちゃんと声おさえてろよ」
 裾から滑り込む手の感触に、思わず声が出そうになり慌てて口元を覆った。 気持ちとは裏腹な体が今日ほど憎いと思ったことはない。
「ふ……ッ、ぅん……ッ」
 声が気になって、抵抗するどころではない。まして体は気持ちを裏切っているような状態だ。 啓介を睨みつけても嬉しそうに笑うだけで手を止めようとはしてくれない。 啓介の唇と両手はどんどん下方へと移動して、早くもジーンズを脚から抜き取ってしまった。
「ぁ……ッ」
 トランクスの隙間から指が入り込み、半勃ちになったそこを握りこむ。
「舐めていいか?」
 脚の間から楽しそうな声がする。返事を待つ気もなさそうなやる気満々の啓介は手にしたそこをやわやわと扱き始める。
「い……やだ、……ぅッ」
「まぁ、そう言うよな」
 ひとり納得したような返事を口にして、そのまま躊躇いもなく拓海の敏感な茎へと舌を這わせた。
「んッ!!」
 びくりと体が跳ね、鎖骨の辺りがきゅうっと軋んだ。
 啓介は舌でひとしきり舐め上げると先端を口に含み、本格的に愛撫を施していく。 快感に抗えず、何とか声を出さないことだけに集中しようとギュッと目を閉じると水音がやけに耳について、啓介の舌の感触が生々しい刺激となって体を這い上がってくる。
「んぅ……ッ」
 早くも張りつめ始めたそこを離してほしいと手を伸ばすと、望み通り啓介の口から解き放たれたものの、けれども根元は強く握られてしまった。
「ん、ぁ……ッ」
「せっかくだし試そうぜ」
 すでに潜ませていたのか枕の下に手を伸ばし、長方形の箱を拓海の目の前に掲げてみせた。中身のひとつを取り出すと片手と口を器用に使ってパッケージを開けて拓海の張りつめているそこにそっとかぶせる。
 啓介の次の手をまさかと勘付いてはいるものの、拓海はされるがまま、上掛けの中の薄暗い空間でただ目を離せずにその光景を見ているしかなかった。
 拓海の予想通り、啓介は先端にかぶせたゴムを唇と舌を使って根元まで下ろすと、もう一度丁寧に舌で舐め上げた。渋い顔をして「思ったよりマズイ」と呟いて拓海に口直しのキスをねだった。
「も……、バカじゃないですか」
 不満たらたらに言いながら啓介の顔を引き寄せ、キスをした。ほのかに啓介の舌に残るチョコの味は確かに人工的ではあったが甘みがじわりと広がった。 顎を引くと唾液が細い糸のように舌を伝う。名残惜しそうに唇を離した啓介は手慣れた様子で自身の昂りにもチョコ味のそれをかぶせると拓海のと合わせてまとめて握り、汗の浮かんだ額や耳たぶに唇を寄せた。
「いつものよりちょっと厚くね?」
「わかンね……っ」
「長持ちするかもな」
「……うそ、だろッ」
 啓介の首に手を回しながら信じられないという顔を見せると、悪戯っ子のように笑っていた顔が劣情をにじませた男の表情へと変わり、ゆっくりと拓海の唇を塞いだ。
 キスをしたままゴム越しに擦り合わされ、スプリングの軋む音がますます羞恥を煽る。啓介はともかく、拓海は普段あまり装着することがない故にたった数ミリの隔たりさえもどかしく感じる。
「な……っ、おまえも、さわ、って……ッ」
 掠れた声に煽られ躊躇いがちに手を伸ばして触れれば、すぐ傍で余裕を浮かべていたその顔が朱に染まり崩れていく様が胸を締めつけ、愛しさがこみ上げてくる。
 いつも余裕を見せる整った顔が切なく歪むのをもっと見たくて手の中にある熱塊を一層強く扱きたてた。括れた部分が引っ掛かると反射的に体が跳ねて腰が疼いた。
「あッ、……啓介さん、は……ぁ、……んっ」
「ぁ……、……じわら、キモチいーか?」
「そっ、ういうこと、……言うなって……ばッ」
 小声で抗議しながら再び片手で口元を覆うとその手を奪われ、啓介の唇が重なった。もうチョコの味はしないのに口腔内を探る舌は甘く、それを絡め取って何度も角度を変えては味わうように吸い付いた。


 長方形の箱の中身が半分ほどに減った頃、拓海の体はようやく啓介の腕から解放された。
「全然……息抜きってレベルじゃねーし……」
 乱れた息を整えながらぐったりとうつ伏せになっていた拓海の体をきれいに磨き終えた啓介は、仰向けにすると顔中にキスの雨を降らせた。
「声我慢してる藤原も結構イイな。最後のほうは全然我慢できてなかったけどな」
 そんなことを恥ずかしげもなく言葉にする啓介の唇を両手で押さえると、啓介の舌が手のひらをくすぐった。
「ちょ……っと、マジで涼介さんに聞こえてないですよね」
 掴まれていた手首を啓介から引き剥がして口を尖らせる。今さらだろうとは思えても、確かめずにはいられない。
「それは大丈夫だ」
「……なんでそう言い切れるんですか?」
「だってアニキ、途中で出て行ったじゃん」
「え……っ?」
「藤原がイキそうになってた……あれたぶん2回目くらいだったかな」
 啓介のセリフに固まり、次いで頬が真っ赤に染まり上がった。
「もしかして……それにも気付かねーくらいオレに夢中だった?」
 ご機嫌度数がさらに上がった啓介に全身で喜びを表現され、それとは正反対に拓海の体から力が抜けていく。
「なーなー藤原、そうなのか?」
「し、知らね……っ」
 力の抜けた拓海の抵抗をもろともしない腕にがっしりと抱き込まれながら、今後は絶対に流されまいと涙目で決意を新たにしたのは啓介には内緒だ。

2012-05-10

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