夢の続き

 飛び起きた。
 それはまるで、予測もしない真夜中の襲撃。
 暗闇の中、口元が緩むのはとめられない。

『拓海!』

 まだ慣れない、あの人の声が自分の名を呼ぶ。
 まだ慣れない、あの人の見せる自分にだけ向ける、笑顔。

 布団に突っ伏して今見た映像を思い出してみる。
 この笑顔だけは、独り占め。
 ほかの誰も見られない。

 ……だめだ。もう眠れない。

 視線の端に、ちかちかと着信を知らせる光。
 まさか、という思いと淡い期待が入り混じる。
 携帯を手にして、ますます口元が緩んでいく。

 ああもう、本当。
 なんて甘い衝撃。

 あわてて着替えて、部屋を飛び出した。

――今、秋名。わりと星がきれいに見えるんだな。

 何度読み返しても、啓介からのメールに書かれていたのはただそれだけ。
「会いたい」とも「待ってる」とも書かれていない。
 それでもたぶん、山頂で彼は自分を待ってくれているような気がして、ハチロクを駆る。 せっかく配達のない日で多少の寝坊は許されるタイミングであったのにこんな夜更けに好きこのんで峠に出かけていく自分に呆れるも、ただ走りに行くだけ、 下りを一本攻めるだけだと言い訳のように呟いて言い聞かせる。本当の目的はそのどちらでもないというのに。
 走り慣れた道をいつもと同じように駆けていく。
 いつもより少しだけ右足に力が入っているのはきっと気のせい。

 自販機が数台並んでいる見慣れたその景色に、あまり馴染まない派手なボディーカラー。その色がコンペティションイエローマイカで、レアなカラーリングなんだと教えてくれた。 長ったらしい色の名前や詳しいことは分からなくても、珍しい色で、それが彼に似合っているということは間違ってないと思う。
 頼りない街路灯と自販機の明かりに片面だけが照らされている。
 流線型が途切れたその少し先、光を背にしてガードレールに腰掛けている人影が目に入り、ハチロクのヘッドライトに照らされてシルエットが色を帯びていく。 顔だけをこちらへ動かして、フロントガラスの中に視線を飛ばしてくる。その視線に軽く手を上げて応えてからエンジンの切られたFDの後ろへとつけ、リトラクタブルを閉じる。 ドアを開けようとシートベルトに手を掛けたところで、ふと動きが止まる。衝動でここまで来てしまったはいいが、何と声をかければいいのか今更ながらに考えてしまう。 誘われてもいないのに、押しかけて来てしまったような気になって急に自分の行動に焦りを覚えた。しかしもうここまで来てしまって、車も停めてしまって、かの人物は自分が降りてくるのを待っている。 迷っていても仕方ない、と思い至って車の外に出る。
「……こんばんは」
「おう」
 当たり障りのない挨拶しか出てこない自分の語彙を恨めしく思いながら、同じようにガードレールの隣に並ぶ。腰を落ち着けると、目の前に缶コーヒーが差し出された。 到着に合わせて買ってくれていたのだということを冷えた缶が示している。
「あ、いただきます」
 軽く会釈をして受け取りながら、横顔を盗み見る。 淡い照明に照らされた横顔は柔らかく微笑んでいるように見えて、思わず目を逸らせてしまった。ここに来る前に見た、夢の中と同じ笑顔が何となく気恥ずかしい。
「あの……今日は何でここに……?」
「ん? まあたまにはホームコース以外でも走っとこうかって思っただけ」
「へえ……」
 その一言に落ち込む理由はないはずなのに。手にした缶に浮かんだ汗を指で拭いながら、次の言葉を必死で探す。
「てのは建前で……」
「え?」
 回された腕に肩を抱かれ、耳元に寄せられた口唇が微かに頬に触れる。
「会いに来た……」
 なんてな、と茶化してすぐに解放された肩に感じる山頂の空気が冷たく感じた。一瞬の抱擁でも分かるほど熱を帯びた啓介の手が離れていくのが寂しく、許し難い。
 無言でガードレールから腰を上げると、啓介の前に立つ。腰掛けたまま悠然と伸ばされた長い脚の間に割り入って、首元に腕を絡めた。 どちらのものと分からない、静かに息をのむ音が聞こえる。
 体に直接伝わる体温。夢の中では決して味わえない本物の感触。 最初は顔を思い浮かべるだけで、夢の中で会えるだけでもよかった。声を聞けるだけでもよかった。だけどこの熱を知ってしまっては、それだけではもう満足できない自分がいる。
「あんなメールだけしてきて……」
「ははっ。こんな時間だし何よりおまえのことだし、まさか気付くと思ってなかったんだけどな」
 背中に回された手の熱が、今この瞬間が現実だと告げている。
「き、今日はたまたま気が付いて……焦りましたよ」
「うん……、分かってる。オレ今すげー嬉しい」
 きっと恥ずかしいほどに顔が赤くなっているに違いなくて、抱きしめる腕に力が入っていく。会いたいと願いすぎて夢に出てきたんじゃないかと思う。しかもあんな笑顔で。だから飛び起きてしまったというのに。 夢に出てこなければ、きっと目が覚めることもなくてメールにも気付かなかっただろう。だけどそれを白状するにはまだ少し勇気が足りない。
「藤原」
 しがみつくように抱きしめた体を離して、絡みつくような視線から逃れて、瞬きの間に近づく距離に目を閉じる。触れ合ったそこからじわじわと全身に広がる熱が、喉の奥を締めつける。 指先も頬も舌も、触れる啓介はどこもかしこも熱くて、伝染するように拓海の体に火を灯していく。
「ああ~、でもやっぱり失敗かも」
「……何スか、それ」
 しばし唇を塞いでいたその口から出る失礼な発言に少しむっとしながら体を離すと、啓介は困ったような笑顔を見せてからまた力いっぱい抱きしめてくる。
「コッチ来る前は顔見るだけでもいいと思ってたんだぜ」
「…………」
「なのにおまえが抱きついてきたりするから……」
「ヒデー。オレのせいかよ」
 啓介の両頬をギュッと挟んで唇を尖らせると、せっかくの美形が台無しになったその表情に思わず噴き出す。
「おめー、失礼だぞ」
「だって……あははっ、啓介さん……今の顔、すげーブサイク……っ」
 啓介から離れてひとり腹を抱え肩を揺らす。なんとか止めようと試みるも目を閉じるとその表情が浮かんでツボに入ってしまったらしく、珍しく声を出して笑う。
「はあー? こんな男前捕まえてブサイクとは……許せんっ」
 背後で揺らめく影にも気付かず、浮かんでくる涙を拭うとその手を掴まれ、強引に抱き寄せられた。 驚きで笑いは止まったものの、今度は心臓まで止まりそうな真顔で迫られる。
「笑いすぎ」
 誤魔化すように抱きつくと一瞬固まって、「こんなのどこで覚えて来たんだ」とか何とか言いながら抱きしめてくる。力比べみたいに負けじと抱きしめると、さらに力をこめてくる。 息苦しくなっても止められなくて、ついにはまた笑いがこみ上げてくる。
「……啓介さんのせいで、オレ欲張りになってます」
「何だよそれ」
「次は……ちゃんと連絡ほしい、……です」
「…………」
 見上げると啓介の頬は少し赤く、「ごめん」と耳元で囁いてから照れを隠すように口づけてくる。 触れて、挟んで、舐めて、吸い付いてまた触れて、深くまで入ってこないのに体の奥に熱を植え付けて。 夢心地から引き戻すように啓介の腕時計が色気のない電子音を出し、すぐ傍にあった熱が静かに離れていく。
「……残念だけど時間切れ。そろそろ行くわ。……遅くにごめんな」
「いえ、あの……、会えて嬉しかったです」
「うん……好きだ」
 最後にひとつ、額にキスを落として「じゃ、また電話する」と笑顔を見せる。
 頷いて、FDに乗り込む啓介を見送る。 遠くなるスキール音を聞きながらハチロクに凭れ、手にしたままだったコーヒーにやっと口をつける。膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。確かに失敗だったかもしれない。 生煮えのように中途半端に熱を持たされた体がもどかしい。耳に注ぎ込まれた音を反芻しながら、震える肩を抱きしめた。

 オレだって……好きだ……。

 言葉は星空に溶けた。

2012-06-15

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