柔らかい頬
藤原拓海は少しばかり不機嫌な気持ちのまま、繁華街の道をうつむきながら歩いていた。新年会のシーズンなのか週末のせいなのか、遅い時間帯の割には辺りは賑わっている。 アルコールとは縁遠い自分がハチロクを飛ばして数十分かかるこの場所にいるのは、もう眠りに就きはじめているところを、啓介に起こされたからだった。
電話口の啓介は酒に酔っていたらしく、陽気な笑い声をあげたかと思えば沈んだ声でタクシーがつかまらないと泣き言を言った。そして甘い声で、会いたいと締めくくったのだ。
惚れた弱みとでもいえばいいのか、無視をするのもきっぱりと断ることもはばかられ、結局はこんなところに立っている。ハイネックのセーターに焦げ茶色のダッフルコート、いつものジーンズ。適当に着替えたはいいが冷たい風が痛いほど頬に刺さる。 ほどけそうになっているスニーカーの靴紐を道の端に寄って結び直し、両手に息を吹きかけて擦り合わせながら目的の店を目指す。
しばらく歩いていると喧騒の中、ひときわ大きな笑い声が響いた。顔をあげるとすぐさま目当ての人物が視界に飛び込んできた。 立ち止まり、遠目からその様子を探る。数人の仲間に囲まれ、帰路につく何人かを見送っているようだ。その場で逡巡しつつもコートのポケットから携帯電話を取り出し、発信ボタンを押す。視線の先で着信音が鳴っている。 啓介は上着やジーンズのポケットを探って、やっと携帯電話を見つけて取り出した。画面を見た啓介が破顔するその瞬間を、拓海は見逃さなかった。
「ふじわらー?」
人の輪からゆっくりと離れながら空を仰いで、歩道のフェンスに腰かけた。
「着いた? 迷子になってねえ?」
「……なってませんよ」
上機嫌に笑う啓介を見つめたまま、拓海は自分の頬が赤くなっていくのを感じていた。
「いまどこ?」
そう言いながら辺りを見回す啓介と目が合った。
「見っけ」
手を振る啓介に、頼むからそんな満面の笑みを向けないでくれと、ますます赤くなる顔を片手で隠した。啓介のもとに足を進めて目の前に立ち止まる。
「へへ。本物のふじわらだ」
ご機嫌な笑顔を見せられ言葉に詰まりながら、それでもなんとか「明日も配達あるんですよ」と口をとがらせ、強気に出てみる。
「ん、帰ろっか」
拓海を少しだけ見上げる角度にいる啓介は、ゆっくりとした動作で携帯電話をポケットに入れて立ち上がり、拓海の腕をそっと掴んだ。 そのまま腕を引かれ、啓介の友達のもとへと連れて行かれた。
「ちょ、っと啓介さん」
「そんじゃーお迎えも来たんでオレはこのへんで」
啓介が拓海の肩を抱きながら声をかけると、友人たちは物珍しそうに拓海を眺め、そして口々にこの若いのが噂のドライバーなのか、本物なのか、紹介しろと囃したてた。皆一様に酔っているらしい。
「こいつはなー、特別なんだよ。そーかんたんにはお近づきになれねーの」
「な、なに言ってるんですか」
軽口が飛び出す啓介の脇腹に肘鉄を入れながら小声で咎める。友人に向かって恥ずかしそうに頭を下げれば、啓介が拓海にもたれかかるようにして抱きついてくる。
「こいつはオレだけのだっつの」
じゃあなとそのままくるりと踵を返し、拓海が歩いてきた方向へと動き始めた。 よろしく頼むなと声をかけられ、もう一度会釈を返した。
啓介の発した言葉も聞き捨てならないものだったが、体が揺れた拍子に頬が触れた途端、あまりの冷たさにギョッとした。寄りかかってくる体を支えてみれば厚手のコートも冷え切っている。
「啓介さん、めちゃめちゃ冷えてるじゃないですか」
「んー?」
拓海のコートをさすりながら、すぐそばにある啓介の顔が拓海のほうに向いた。
「ほんとだ、ふじわら、すげーつめてえな」
「オレじゃなくて」
「あったかいとこいこーぜ」
酔っているせいか呂律が怪しいものの、抱き寄せられてそんな言葉を耳元で囁かれれば、否が応でも鼓動が跳ね上がっていく。
「と、とにかく車まで歩いてくださいよ」
「うん?」
拓海はため息をつくと、啓介を抱え直して歩き出す。雪が降り始めそうなこの寒さも気がかりで、何より風邪でも引かれてはたまったものではない。寄りかかってくる重い体を引きずりながらハチロクのもとへ急ぐ。
「ふじわら」
「なんですか」
「あっためてやろうか」
言いながら、拓海の頬に吸い付いてくる。
「うわ、ちょっと!」
片手で啓介の顔を押し戻し、自身の顔を背けて距離をとる。 いくら酔っているからといっても往来でキスをされるなんて冗談じゃない。完全な酔っ払いぶりと、ケラケラと笑うその顔に無性に腹が立って、拓海は啓介の両頬を片手でぎゅっとつかんだ。
「うむぅー」
タコのような口になって、せっかくの美形が台無しだが一向にかまわない。 人の睡眠を妨害しておいて能天気にはしゃぐ啓介をじろりと睨みつける。痛みに眉を顰める啓介の顔を解放すると前を向いてまた足を進める。
一人で歩く分には距離も気にならなかったのに、この酔っ払いを支えながらでは歩くのも一苦労だ。もう少し近くに車を止めればよかったと後悔し始めたところでやっと愛機が見えてきた。
「着きましたよ」
「ん、どこ? 部屋もう選んだ?」
「部屋……って、ホ、ホテルじゃねーから」
「んー?」
「ほら、目ぇ開けて、起きねーなら後ろに乗せますよ」
「後ろー? おまえいっつもいやだって言うじゃん」
「何の話だよ」
ロックを解除して助手席のドアを開け、啓介を押し込んだ。なだれ込むようにシートに沈み込み、うとうとしかけている啓介にシートベルトを締めてやる。間近にある目がうっすらと開いて、後頭部に手が回ったかと思えば強引に口づけられた。
「ん、ンン……ッ」
「ふじわらぁ、しよ」
熱っぽい吐息が耳にかかる。慌てて体を離し、長い脚も押し込んでドアを閉めると運転席側に回り込んだ。そのままドアを開けずにハチロクに突っ伏し、冷たいルーフで頭を冷やしながら深呼吸をする。
「心臓に悪いんだよ、啓介さんのばか」
拓海は自分の両手で頬を叩き、もう一度深呼吸をすると勢いをつけてハチロクに乗り込んだ。
「啓介さんちに向かえばいいんですよね」
エンジンに火を入れシートベルトをしながら話しかけると、啓介は眠そうな目を向けて、ベルトをつけ終えた拓海の手に自分の手を重ねてきた。
「啓介さん?」
「しねーの?」
「……っ、酒臭い人とはしません」
触れ合った手をひっこめると啓介は不満そうに唇を尖らせた。拓海はその顔を視界の端に入れながらシフトレバーを操作し、暖機もそこそこにアクセルを踏んだ。信号に引っかかるたび、啓介は拓海の耳たぶを指先でもてあそび、キスをねだる。 その都度あとで、と攻撃の手をかわしながら車を走らせる。高橋邸に到着する頃にはちらほらと雪が降り始めていた。門灯が点いている以外はどこも真っ暗で、家人が誰一人いないことがうかがい知れた。眠りに就くか就かないかの狭間を彷徨っている啓介の肩を揺する。
「着きましたよ、大丈夫ですか?」
「おーふじわらーまじでさんきゅーな」
大きな手でくしゃくしゃと拓海の髪を撫で、笑顔を向けてくる。酔っ払いは苦手なはずなのに、優しく、甘さに満ちたその顔に不覚にも胸が高鳴った。拓海はシートベルトを外して啓介に触れるだけのキスをした。
「ふふ、なにぃ……珍しいじゃん」
「……あとでって……言ったから」
嬉しそうに笑う啓介に真っ赤な顔で言い訳をしながら、もう一度、今度はゆっくりと唇を押し付けた。拓海の頬を包む啓介の手は温かく、触れられていると心地良い。 互いの舌を擦り合わせ、キスを深くしていく。
「ぁ、……はぁ……、ん、ふ……っ」
「ふじわら……まじで帰んの?」
「明日は配達あるんですよ」
「こんな寒い夜に一人寂しく寝かせる気かよ」
啓介は拓海の耳たぶを甘噛みしながら、狭い車内で体を抱き寄せる。セーターに隠れた首筋にも吸い付き、唇の感触に拓海は肩を竦めた。
「それじゃ、温かくして寝てくださいよ」
やんわりと体を離すと啓介は諦めたようにため息をついた。
「ん、またな」
「……はい、また」
啓介は名残惜しそうにキスをしてからハチロクを降りると、時々よろめきながら玄関の前で立ち止まった。啓介が家に入るまでを見届けようと待っていた拓海は、啓介の動きにデジャブを感じた。 携帯電話を探しているときと同じように、パタパタと上着やジーンズのポケットをあちこち叩いているのだ。
「なんだ……?」
ごそごそと探し物をしている啓介を見かねて、ハチロクを降りて駆け寄ると、振り返った啓介が「鍵がねえ」と笑った。
「えーっ」
よく探してくださいよと言いながら啓介のコートやジーンズのポケットに遠慮なく手を突っ込む。ない、ないと呟きながら、もはや探す気もないらしい直立不動の啓介のポケットを探り、はたと見つめ合った。しばしの沈黙の後、拓海は恐る恐る切り出した。
「……涼介さんは今日は?」
「んーと、泊まりこみ、だって」
「親父さんたちは」
「学会で、えーっとどこだっけ。西のほう行くってアニキが言ってた」
「マジですか……」
「まーなんとかなるだろ」
まだ酔いが覚めていないのかゆらゆらと揺れながら自嘲の笑みを浮かべる啓介に、そこから先は考えるよりも口が勝手に開いていた。
「車、乗ってください」
しんしんと雪が降る中、酔っ払いの恋人を置き去りになんてできるはずもなかった。啓介の腕を引き、来た道を戻ってハチロクの助手席へと再び啓介を押し込んだ。
「おい、ふじわら?」
「ひとまずうちに連れて帰ります」
アイドリングしたままだったハチロクを再び発進させ、加速させていく。
「なに、お持ち帰りしてくれんのかよ」
「置いて帰って風邪引かれたら困りますし」
「おまえって超やさしいのな。マジ惚れ直すわ」
さらりと言ってのける啓介の言葉に、前を向いたまま、拓海は首筋まで真っ赤になった。 next
2014-01-23
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