FAKE

 赤城山。
 動きを止めたハチロクの傍らで、拓海は動けずに佇んでいた。こんなところ来るんじゃなかった。そんな後悔の念だけが頭と心を支配していた。じわりと浮かんでくる涙を袖で拭い、じっとハチロクを見つめていた。 オイルで汚れた車体。その扉にそっと手を添える。悔しさで唇が震えた。耳をつんざくエキゾーストノートが聞こえてきたのはそんな時だった。 灼熱の太陽を思わせる闇夜にまばゆいイエローが拓海のすぐ後ろで急停車し、運転席から長身の男が飛び出してきた。
「大丈夫か藤原、怪我はッ」
 気づいた時にはもう熱い腕の中に囲い込まれていた。体のあちこちをまさぐられているのに思考が追い付かず、冷たい両手が頬を包んでやっと意識が覚醒したように拓海はその手から逃れた。
「な、何だよあんた」
 火照る顔を片手でごしごしとこすり、目の前の男を睨み付けた。もう二度もバトルをした相手だ。さすがに名前は覚えている。高橋啓介。 まともに話したことだってないような相手なのに、なぜこんなところに現れるのか。
「体は何ともないみたいだな」
 ほっとしたように笑うから、それ以上は何も言えなくなった。
「……エンジン、いったのか」
 そんな呟き声に拓海はびくりと肩を揺らした。認めたくない。もう動かないなんて信じない。 冷たい風を全身に浴び、唇を噛んだ。
「アニキが言ってたんだけど、今日のお前は勝ち負けとかそういうのすっ飛んでるみてーだって」
 冷静になってみれば確かにバトルだ勝ち負けだなどという概念は毛頭なかった。 ただ見たくもないものを見て、信じていたものに裏切られたような絶望感を味わい、そして無性に腹立たしくなって勢いのままにここに来たのだ。
「勝ち負けじゃないなら何のために走ってるのかオレには分からないけど、おまえがここで終わるとはオレは思っちゃいない」
 勝手なことを。そう思うのにその言葉を遮る気にはなれなかった。
「また走るだろ」
「そ、れは」
「オレはお前に負けたままなんてしゃくだからな。このまま勝ち逃げしようなんて思うなよな」
 そう言いながら、なぜか啓介は拓海をぎゅっと抱きしめてきた。 突然の抱擁に拓海は慌てて啓介の体を引きはがそうと上着を引っ張った。びくともしない体に焦りが募る。
「とにかく、藤原が無事でよかった」
 最後にひときわ力をこめたあと、啓介は拓海の体を解放した。
「これからどうするんだよ。どこか連絡入れたのか?」
「あ、はい……大丈夫です」
 どうするも何も術がなかったが、どう言えばいいのか分からずにそう答えていた。
「携帯持ってるのか? なら番号教えろよ」
「あ、それは、その」
「ナンだよ、オレには教えたくねえってか」
 ぶんぶんと頭を横に振ると啓介は携帯電話を取り出し、電話をし始めた。会話の内容から、相手は兄の涼介らしかった。二言三言で電話を切ると「アニキが何とかするって」とさも自分の手柄のように言ってのけた。 呆気にとられて見上げる拓海に、啓介は思い出したかのように愛車へと戻った。
「藤原、なんか紙持ってねえ?」
「ないです」
「しょうがねえ。これでいいか」
 助手席に突っ込むように屈められていた大きな体が車外に出てきたと思ったら、手元の小さなものに何かを書き留めている。足元の木の葉が風に飛ばされ、急激に体が冷えるのを感じた。 両腕をさすって啓介を待っていると、振り返った啓介に片手を取られ、その小さなものを握らされた。手元に視線をやり思わずぎょっとした。
「な、何ですかこれッ」
「わりー書けるものそれしかなくてさ」
「っていうか、これ……、こんなのいつも持ち歩いてるんですか」
「いやだっていつ必要になるか分からねえだろ? あれ、もしかしておまえ生派? デキ婚狙いの女には気をつけろよ」
 その一言にホテルからベンツが出てくるシーンがよみがえり、その映像を振り切りたくてまるでメンコのように手の中のそれ、啓介が持たせたコンドームを地面に叩きつけた。 ぺちっと情けない音がなって、余計に惨めさを助長してくる気がした。啓介は不満気にそれを拾い上げて再び拓海の手に押し付けた。
「何しやがんだよ。これオレのケー番だっつの」
 唇を尖らせながら手を握ってくる啓介が、悔しさを滲ませる拓海の顔を見てふうっとため息をついた。
「修理に出す間ハチロクなくて暇だろ。飯くらいおごってやるから電話しろよな」
 それだけ言い残して啓介とFDは走り去った。あとに残された拓海は戻ってきた静寂に身を震わせ、上着を羽織ると仕方なく運転席に乗り込んだ。手の中にあるコンドームのパッケージには啓介の携帯電話の番号が書いてある。
「オレ携帯持ってねーし」
 自嘲気味に言ってジーンズのポケットに手の中のものを押し込んだ。
「高橋、啓介……へんな人」
 鬱々と沈んだ気持ちは晴らせないまま、けれど意外にも啓介の明るく元気づけてくれるような振る舞いには助けられた。幾重にも重なったショックな出来事を、頭の中から半分くらいは流し出してくれた気がする。
 寒空の下どれほどの時間が経ったのだろうか。父、文太が積車で迎えに来たことには心底驚いたが、もしかしたら先ほどの啓介の電話のおかげで涼介から連絡が入ったのかもしれない。 文太は事細かに説明するような性分ではないから確かなことは分からないが、今の状況から抜け出せることはありがたかった。
 家のガレージからハチロクがいなくなって再び気持ちは沈んでいくが、少なくとも嫌な記憶だけが残るようなことにはならなかった。拓海は内心では啓介に感謝していた。

「電話しろって言っただろ」
 顔を突き合わせるなりそんな不満を口にする。あれから何日も経っていないのに、高橋啓介、彼はどうやらずいぶんとせっかちのようだった。 このガソリンスタンドに来るのはもう何度目か。バイト上がりの時間を狙われたらしい拓海は、半ば強制的に鮮やかな色の彼の愛車に乗せられた。 飯でもどうだと連れて行かれたのは近所のファミレスだった。
「あれからどうだよ」
「どうって」
 席に着くなり啓介が切り出す。拓海は会話のテンポについていくのに必死だ。
「エンペラーのやつらはオレとアニキで負かしてやったからな。ハチロクの敵討ちだ」
 どうだとばかりに鼻を鳴らす啓介に、拓海は苦笑した。
「あの人たちのせいじゃないです。オレがヤケ起こしただけだし」
 うつむき加減にそう言ってメニューを見るふりをする。
「須藤のやつに何かされたのか?」
「えっ、違いますよ」
 格の違いを見せつけてくるような、教師が生徒に諭すような物の言い方はただやるせないと思っただけだ。 大きなメニューをめくりながら、下唇を噛んだ。茂木なつきのことは今回赤城に行くきっかけにはなったが、それよりも父親が大事にしてきた車、ハチロクを壊してしまったことの方が拓海にとってはショックが大きかった。 二つの出来事を拓海はまだうまく自分の中で処理できないでいた。
「どうなんだ、ハチロク」
「エンジン、載せ替えるしかないって」
「そうか」
 啓介も落胆したようにソファの背もたれに体を預けた。 拓海が沈黙を選んだからか、啓介も煙草に手を伸ばしたきり何も語らなかった。店内の喧騒だけが無言の二人を包んでいる。
 拓海は視線を上げて啓介を見た。頬杖をついて窓の外を眺めている横顔はずいぶんと整って見えた。 啓介といい兄の涼介といい、こうも人目を引く容姿であればきっと恋愛においても苦労知らずなんだろうとそんなことを思った。 少なくとも一番仲良くしていた女友達が実は父親くらい年の離れた男と付き合っていたなんて、しかもそれで金をもらっているだなんて話はありえないだろうと。
「どした? ンな熱い目で見つめんなよ」
「はっ? ち、違います何言ってんですか」
 拓海は慌てて呼び出しボタンを押した。目の前の啓介は小さく肩を揺らしている。悔しくて唇を尖らせると啓介はさらに目を細めた。
「藤原ってけっこうすぐ赤くなんのな」
「ガキだって言いたいんですか」
「いや、可愛いっつーか年相応なとこもあるんだなって思ってさ。走りはバケモンみたいなのに」
 やっぱり子ども扱いだ。そんな不満を抱き窓の外に視線をやった。
 あんな電話を信じるつもりなんてなかった。間違いだと証明したかった。それなのに結局啓介の言うバケモノじみた走りで車を壊してしまった。 我を忘れて怒りに任せて走った結果だ。
「オレ昔さ、まだ二輪の免許しかないときだけど、女に振られてバイク飛ばしまくって気づいたら千葉の海岸まで行っててさ」
「ええ?」
「海なんかいつぶりだーって。夜だから真っ暗で何にも見えねーんだけど、ひとりで砂浜に寝転んで星見てたら急にアホらしくなってさ」
 小さく笑う啓介が少し照れたように鼻の頭を指先でかいている。
「わざわざ給油までしてたんだぜ。信じらんねーよな。しかもそれ記憶にねーんだよ」
「ははっ。やっぱあんたって変」
「おっ。……やっと笑ったな」
 白い歯を見せて笑いかけてくる啓介に、拓海はまた顔を赤くした。
 注文した料理を口に運びながら、拓海は自然となつきのことを打ち明けていた。啓介はフォークに挿したハンバーグを途中まで持ち上げながらそれを口に入れることはせず、驚愕したように呟いた。
「おまえ、けっこうヘビーなこと経験しちゃってんだな」
 自分で話しておきながら、改めてそれを口にすると心に苦みが沁み渡る。眉間にしわを寄せたまま箸を持つ手が止まってしまった。
「つーか、なんでこんなこと言っちゃったんだろ」
「オレとおまえが関係ないからじゃねえか?」
「え?」
「友達ってわけじゃないしチームの仲間でもない。オレはその女のことも知らないし、何のしがらみもない相手のほうが案外あっさり言えたりするんじゃね」
「そんなもんかな」
 一緒に食事をしながら友達ではないと言い放つ啓介はやっぱり変な人だと拓海は口元をほころばせた。

 それから、数えるほどだが啓介と出かけたことがある。
 買い物に付き合えだったり、体を動かしたいという啓介に連れられて寂びれたバッティングセンターへ行ったこともあった。 呼び出されるのはいつも唐突だが、不思議と嫌だと思ったことはなかった。啓介の持つ空気や接してくる態度がとても心地よく思えて、また誘ってくれないかと考えるまでになっていた。
 高校を卒業してから初めて持った携帯電話は、啓介と一緒に選んだやつだ。お節介なのか面倒見がいいのか、わざわざ店についてきたのだ。 ボタン操作が軽いのはどのメーカーだとか、音質を重視するならあのメーカーがいいとか、何の前知識も入れずにいた拓海にそんな些細なことまで細かく教えてくれたのだった。
 プロジェクトDが始動する頃には、啓介の言う無関係から友達に昇格し、ライバルという肩書も増えた。拓海はイツキにもしたことがないような恋愛相談まで持ちかけたことがある。 卒業して社会人となり、自身の周辺環境が慌ただしく変化したのもあって、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。 自分の周りにはいない、モテるタイプの年上の男というだけで、なぜか尊敬の念すらあった啓介を相手に選んだのは自然な流れのような気がした。啓介は驚きはしたが、きちんと向き合って真摯に話を聞いてくれた。
「オレもさ、昔付き合ってたやつのこと、オレなりに真剣だったぜ。でもレッドサンズに入ったときは車のほうが楽しかったから別れちまったけど」
「千葉まで行ったってやつですか?」
「……よく覚えてんな。ま、それより後の話だけどな」
 啓介はあのファミレス以来、過去の恋愛話を聞かせてくれることはなかったが、しつこくされるのが嫌いだということや泣かれるのが苦手だとぼやいていたことがある。 二輪を卒業して四輪に乗り始めてからは恋愛からは遠ざかってると切なげに顔を歪めた。
「プロジェクトとの両立も厳しそうだし、まだしばらく女は無理かもな。ていうか藤原といる方が楽しいよ、最近は」
 照れたようなその表情に、拓海は次第に啓介のことを意識するようになっていった。

 きっかけなんて、些細なものだ。啓介を意識し始めて、それを恋心だと自覚するのに大した時間はかからなかった。
 甘い台詞を言ってきたりキスをしたり、夢の中ではすっかり啓介の恋人のような存在になり得ている自分が信じられないほどだ。 朝、目が覚めてそんな夢を見る自分が、何よりそれを幸せだと感じてしまうことが、この上なく恥ずかしい。
 プロジェクトが本格的に始動してからは啓介と出かけることもほとんどなくなった。だが毎週のように峠で顔を合わせることになり、気が付けば姿を目で追っているし、啓介の前では平静を装うのに必死だ。 普通にしようと思えば思うほど不自然なほど無愛想になって、不審に思われないかとばかり気になってしまう。当の啓介は走りに集中したいのだろうといい風に解釈してくれているらしいのが余計にもどかしい。
 そんな状態が続いている中、Dのメンバー数人の飲み会に未成年の自分が呼ばれた理由を考えあぐねるばかりで、楽しむとは程遠い感情に支配されていた。
 和風の居酒屋の、広い座敷の端っこでウーロン茶を飲みながら向かいに座る松本とハチロク談義に花を咲かせようにも、大層に酔っぱらったエースの片割れの声に松本の声も自分の声も掻き消されてしまう。
 後ろの男はその人を囲む数人で何やらいかがわしい話で盛り上がっている。
「コイツ先月から彼女と同棲し始めたらしいっすよ」
「マジッすか、うわー超うらやましい」
「おいおい、パパになるのはもうちっと先にしとけよ。事故と避妊だけはきっちりしとかねえとな」
「車と私とどっちが大事なのーとか言ってこないっすか?」
「そいや啓介さん、彼女いましたよね?」
「いつの話だよ、そりゃ」
 口々に出る言葉を聞きたくなかった。これ以上、聞いていたくなかった。深酒している相手にここがチャンスとばかり根掘り葉掘り情報を引出そうとしている。 普段はあまりそう言ったことを語りたがらない男も酔いのせいか口が軽くなっているようだ。 それが車の話であるなら何も言うことも、気になることもないのだが、季節は夏、やはりひと夏の何とやらを夢見ているのか、啓介を囲む男たちはその手管を少しでもものにできないかと事細かに詮索している。 聞いていたくないのに、耳はその声を拾う。時々触れる腕と背中が、ばかばかしいほどの緊張を呼ぶ。 触れないように少しずつ距離を開けても、すぐにその差が縮められる。背中に目が付いているんじゃないかと思うほど離れることを許さない。
「藤原、大丈夫か? 席、変わろうか?」
 松本の横にいた史浩が見かねたように声を掛けてくる。
「あ、いえ大丈夫です。すみません……っと」
 答えるそばからまた大きな背中がぶつかる。手に持っていたグラスからウーロン茶が少しこぼれてテーブルを濡らした。
「ちょ、っと啓介さん、ほどほどにしとけよな」
 独り言のように言うと、それまで明け透けに過去の女性との情事を披露していた啓介が大きく振り返って寄りかかってきた。
「お、飲んでるかぁ、ふじわらぁ」
 呂律の回っていない口調でへらへらと笑い、こぼれた水滴を拭っている手に熱い手をかぶせてくる。 触られて固まった手から腕を伝って肩へと大きな手が移動している。視線を啓介の顔に止めたまま動けないでいると上がってきた手がついに頬に到達する。余っていたもう片方の手も、反対側の頬に添えられている。
「あっ! こら、啓介止めろ」
 制止する史浩の声に口端を歪めて、うるせぇ、とだけ言うとそのままその唇を拓海に押し付けた。 反射的に啓介の体を押し返そうと腕を突っ張るも、頭部を抑え込まれるとそれ以上は体が離れずしまいには畳の上に押し倒される格好になった。 どこにそれだけの力があるのか啓介はビクとも動かない。それでも触れた唇だけは器用に動いて、時折できる唇の隙間から必死に酸素を取り込む。
「っ、んぅ、やめっ……ろ」
 逃げようともがけばもがくほど拘束はきつくなり、舌がどんどんと侵入してくる。 こんなところで、こんな状態で、こんな口づけ。沸々と怒りが湧いて、頭に血が昇っていく。泥酔状態の啓介は拓海の抵抗をものともせずただ口内を貪っている。 たった今、女性の話をしていたその口で。
 松本と史浩がテーブルを跨ぎながら二人がかりで啓介の体を引き離す。唇の間に唾液の糸が伝ってプツリと切れる。
「啓介、やり過ぎだ」
「大丈夫か、藤原」
 手の甲で唇をこすり、心配そうに声を掛ける二人に何とか小さく頷くだけで答えた。 啓介の隣を陣取っていたケンタも何事かと覗きこんでいる。畳に仰向けたまま息を整え、ジンジンと熱く濡れた唇をまた無理やり腕でこすった。
「ああ。たまに出るんですよね~、これ。今日は藤原が犠牲になったのかあ」
 事態を把握したケンタの間の抜けたような声に、拓海が飛び起きる。さらに乱暴に唇をこすりながら視線をやると、照れくさそうに呟いた。
「啓介さんは時々キス魔になるんだよ。柔らかかったなぁ啓介さんの唇……」
 ブチンと今度こそ頭の奥で何かが切れる音がする。睨みつけるように啓介に視線をやると、何事もなかったような、眠そうな顔でさらに酒を飲み続けている。
「ケンタだけじゃなくてオレも松本だってやられたことあるんだぞ、藤原。だから、気にするなよ、な?」
 史浩がフォローのつもりなのか、怒りで顔を真っ赤に染める拓海に告げる。さすがに触れるだけだったけどなあ、と続く言葉は松本に向けられている。 ここが店では無かったら、きっとあの端正な横面を張り、飛び出して逃げていただろう。 さすがにこれ以上注目の的になることのほうが耐えられず奥歯を噛んで胡坐をかき、目の前のグラスを引っ掴んで残りのウーロン茶を喉の奥へと流し込んだ。
 啓介との初めてのキスがこんな形で現実となり、拓海の胸中は複雑だった。頭の中は混乱を極め、どう受け止めればいいのか分からない。
「オレ、明日も配達あるんで帰っていいですか」
「ふじわら、もうかえんの……?」
 言って、絡みついて来たのは啓介だった。ほとんど目も開いていない、眠りに落ちる直前のような顔と声で拓海の首に抱きついている。
「もっ、やめろって!」
「つめたくすんなよ、ふじわら……」
 遠慮なく全体重を掛けてくる啓介の重みでバランスを崩し、またも畳の上に押し倒される羽目になった。
「マジで……いい加減にしてくださいよ」
「かえんなよ、ふじわら」
「帰ります。もうあんたなんか知りません」
 啓介らしからぬ言動に呆気にとられていた松本と史浩に視線で助けを求める。再び二人がかりで抱き起こされる脱力した重みが体から離れた隙に立ちあがり最低限の挨拶だけを済ませて足早に店を出た。
 駅に着くまでの道のり、頭の中は啓介とのキスで埋め尽くされている。酒の席でのアクシデントと片付けられない自分の狭量さや、話のネタにと笑い話にもできない機転の利かない頭がこれほど恨めしいこともない。 リアルな感触が残る唇をまた大げさに甲で拭った。
「あれ、藤原、もう帰るのか?」
 駅前のロータリーで急に声を掛けられて肩を揺らし、慌てて顔を上げた。
「涼介さん……」
「どうかしたのか?」
 その労わるような声に、拓海は思わず涙目になる。 何でもないですと目元を拭いながらうつむくが、鼻の奥がつんとする。涼介は困ったように薄く笑って、場所を変えようと拓海を連れて降りたばかりのタクシーに戻った。

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2016-01-30

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