冷えた指先
今はまだ、全部くれなんて言わない。
今はただ少し、ほんの少しの情でも欠片でいいから、おまえの気持ちが欲しいんだ。
ホワイトデーも終わって、そろそろ新しい月を迎えようとしている。春が近いと言ってもまだまだ冷え込む早朝の秋名峠に、1台の車がその体を震わせて停まっている。
アイドリングで震える車体が、寒さに震えているように見える。
ここで待っていれば会えるだろうと、早起きなんてガラでもないのにひと目でいいから会いたいという衝動に駆られ、まだ暗いうちから車を飛ばしてこんなところまでやってきた。
大学は春休みでも今日は平日で拓海は仕事があるというのに、配達帰りの拓海を強引に捕まえようと待ち構えて朝焼けなんて眺めている。
そろそろだろうな、と時計に目をやり車外に出れば吹き付ける風に思わず身を竦ませ、静かな峠に待ち望んだエキゾーストノートが響き始める。
「来たな……」
呟いて車道の真ん中に出ると、ほどなくして現れた白い車体が派手な音を立てて啓介の手前で停車する。すぐに降りて来た拓海が啓介に駆け寄り、声をかける。
「びっくりした……何やってんですか」
「夢、見たんだ。藤原が出てきた」
だから会いに来たんだと、啓介は言う。そしてその甘い声のまま、拓海に問いかけた。
「なあ、オレらって付き合ってんだよなあ?」
「な、んですか……急に」
「付き合い始めってもっとこうさ、あんじゃん」
拗ねたような顔でジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま拓海を指さしている。
「もっとって言われても……すみません、何言ってんのかよくわかんないです」
照れなのかそれとも素でそうなのか、ピンと来ないような顔で眉間を寄せる。メールも電話も自分からばかりなのが不満だと言うつもりはない。ただあまりの反応の薄さにときどき不安になるのだ。
「オレ、急ぎすぎ?」
「啓介さん……?」
まっすぐ見つめてくるその目に、どれだけ焦がれたか。
思いが一方的でないことが証明されただけでも気持ちが晴れ渡っていたはずなのに、これまでの自分には考えられないくらいに少しずつゆっくりと関係を進めているうちに、
いつのまにか、自分の中で線引きをしているわけでも拓海から拒絶されたわけでもないのに、一歩先へと進むタイミングを掴めないままでいる。
寒さで吐く息が白く、かじかんだ手をすり合わせている拓海間近でを見下ろしながら、独り言のように呟いた。
「さわっていいか?」
「え……っ?」
少しだけ驚いたふうに目を開いて顔を上げた拓海へと、腰を屈めたまま脚を進める。
「ちょっとだけ」
「啓介さ……」
胸元で組んだ手ごと体を引き寄せてジャケットの中に閉じ込めると、拓海はしばらく迷った態度を見せた後、冷えた指先を啓介の背中に回して、首元に頬をすり寄せてくる。
拒まれなかったことに安堵したのもつかの間、その仕草が可愛くて、思いっきり力を入れた。
「っ、あの、苦し……」
「あ、わり」
腕の力を緩めて拓海の顔を見ると、見上げてくるその頬がほんのり赤くなっている。寒いからなのか啓介のせいなのか、自分がそうさせたのだとしたら嬉しいが、
迂闊なことを聞けばすぐに離れてしまう気がして、黙って抱きしめ直し背中をさする。不安をよそに、されるまま大人しく啓介の肩に頭を預けて、顔を隠すようにうつむいている。
「啓介さんって体温高いですよね」
「……藤原といるからだろ」
「何、恥ずかしいこと言ってんですか」
もぞもぞと顔を埋めて呟く声も、この距離なら聞き取れる。唇のすぐ傍に真っ赤になった拓海の耳があり、その誘惑に耐えきれずついつい舌を出してしまった。
「あ、ちょ……っ」
「逃げんなよ」
離れようとする体を強引に引き止めて、今度は唇を重ねた。頑なに閉じたままのそこに押し当てているだけなのに、拓海がガチガチに固まっていく。
見かねて力を緩め、詰めていた息を吐き出させるように背中をさすり、鼻先を合わせる。
「オレが……怖いか?」
「あの、そう……じゃないんです……恥ずかしいっていうか、外だし」
「こんな時間、誰も通らねえだろ」
「それはそうだけど、ちょっと……困ります」
「……分かった。今はこれで我慢する」
せっかく会いに来たというのに思う存分味わえないのは残念だが、いきなり押しかけて来たのは啓介自身の勝手だと理解している。困らせたいわけではないし、何より我慢が効かないガキでもない。
自分に言い聞かせてから大人しく抱きしめ直して拓海の肩に顔を埋めるとなぐさめるみたいに背中をさすってきて、
腕を動かすたびに感じる拓海の匂いを胸一杯に吸い込むと、変態ですか、なんて言ってくる。そんな憎まれ口でさえ嬉しいと風に吹かれる髪を撫でながら、時折冷えた耳たぶに口づける。
拓海はくすぐったそうに肩を竦めて、ジャケットの中で啓介の肩甲骨を指先で辿る。その感触を確かめながら、拓海の肩に額をこすりつけて呟いた。
「藤原と丸1日一緒にいれるんなら誰に跪いたっていいのにな」
「……オレはそんな情けない啓介さん見たくないです」
抱き合ったまま、目も合わせずに会話が進んでいくのを奇妙に感じながら静かに白んでいく東の空を眺める。体温と吐息が混ざり、触れている部分が温かさを増していく。
黙ったまま、規則的に動く拓海の背中が冷えないようにジャケットの合わせを深くすると、短く息を吐く音が耳に届く。
「なあ。おまえはさ……オレに会いてえとか声が聞きてえとか、そういうことねえの?」
「啓介さんがこうして来てくれるから、そんなこと考える暇なんかほとんどないですよ」
顔が見えなければ、普段よりは幾分饒舌に、素直に気持ちを伝えてくる拓海に、女々しくモヤモヤと抱えた気持ちが少しずつほぐれていく。
全部を知りたいと願っても、強引に暴くような、奪い取るような真似はできない。少しずつ、拓海本人の口から、拓海の言葉で伝えられることに意味がある。
「じゃあ、仮にあったとしたら、そういうときどうしてんだよ」
「どうって……それは、その、考えながら……寝ます」
「んだよ、そういうときこそ電話しろよ」
「……だって啓介さん、こんな朝早くでもすごく無理してでも会いに来ようとするじゃないですか。嬉しいっていうよりなんか申し訳なくて」
「無理なんてしてねえっつうか、オレはちょっとくらい無理してでも会いてえんだよ、好きな奴にはさ」
少しだけ体を離して拓海の顔を見つめる。啓介の言葉に見事に反応して真っ赤になって黙ってしまうその顔が見たいのだと、どうすれば伝わるのか、もどかしい気持ちを持て余す。
「少しでも時間があるなら顔見たいし、くだらないことでも話していたいし、ただ隣にいるだけでもい……」
まだ冷たいままの指先を啓介の言葉を遮るように口元にあて、真っ赤な顔のまま見上げてくる。強引に腰を抱き寄せ、体を密着させると唇の間に拓海の手が挟まった。
キスをするように指先を唇で挟んで舌を這わすと、ぴくりと震えて啓介の舌から逃れるように首に手を回して抱きついてくる。
「今度の休みは……、啓介さんのためにあけておきますから」
一層小さくなった声に耳を疑い、しがみつく拓海の体を勢いよく引き剥がして顔をのぞきこむ。
「……マジ?」
「……マジ……です」
赤くなりながらはにかんで答える拓海の冷たい手を握りしめて、指先にキスをした。止められようが逃げられようが関係ない。引き剥がした体をまた抱き寄せて、今度は逃がしはしないと舌を貪った。
2012-09-27
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