春風

「啓介さんお願い……」
「まだ早いんじゃね?」
「でも、いきたいです」
 ほんのり頬を桜色に染めてそんなことを言う恋人の頼みを、どこの啓介が断れるというのか。
「しょうがねえなぁ」
 などと言いつつ頬が緩むのを止められないでいる。
「今度の休みでいいのか?」
「はい」
「分かった。じゃあ10時くらいに迎えに来る」
 啓介の答えに、拓海はナビシートで安心したように笑って頷いた。FDから降りようとしない拓海に軽く口づけると、名残惜しそうに見上げてくる。
「さっきも散々したじゃねえか」
 柔らかい下唇を指先で挟むと、頬の赤みが増した。
 なけなしの理性を総動員していつもより早めにデートを切り上げて家に送り届け、おやすみのキスを送ったところだ。 離れがたいのは啓介も同じだったが、明らかに疲労が見て取れる拓海をこれ以上連れ回すことはできないと思ったのだ。
「ゆっくり休めよ。今度は今日みたいにキスだけでやめてやらねえからな」
「……はい」
 真っ赤な顔のまま車を降りると、拓海はいつも車が見えなくなるまで見送ってくれている。バックミラーに映る姿に、スピンターンで戻って力いっぱい抱きしめたい衝動を抑えながら、啓介はアクセルを踏んだ。


 燦々と太陽が降り注ぐ中、啓介は約束の時間より少しだけ早く藤原豆腐店の前に停車した。エキゾーストノートが聞こえていたのだろう、呼び出すまでもなく店から出てくる拓海はいつもと同じ眠そうな顔ではあったが、幾分疲労が和らいだような柔らかい表情だった。
「それなに?」
 いつもは身軽な拓海が持っている手提げの紙袋を指さすと、少しだけ頬を染めて、弁当と呟いた。
「さすがにコンビニ弁当じゃ味気ないかと思って」
 照れ隠しなのか少し饒舌になった拓海は顔を伏せるようにしてシートベルトを締めた。拓海の気遣いに啓介の頬もつられて赤くなった。
「う、っし、じゃあ行くか。妙義でいいんだっけ?」
「はい、お願いします」
 啓介は咳払いをしてからシフトレバーに手をかけ、アクセルを踏んだ。

 春の日差しが心地良く、助手席の拓海は猫のように目を細めて車内に入り込む日の光を浴びている。
「そういや、なんで妙義なんだ? 桜なら地元でも見れるだろ」
「久しぶりに行ってみたくなって」
 そう笑う拓海を横目に、ナイトキッズとのバトル以来だな、と啓介も記憶をたどる。
 拓海の駆るハチロクに負け、そのあとはがむしゃらに速さを追い求めた。拓海への対抗意識、ライバル心、敵対心、それらすべての思いが啓介の原動力の一部となった。 いつか仕留めると、絶対に勝ってみせると息巻いていたはずが、いつしかその思いに拓海への恋心も加わって啓介を包み込んだ。 体を繋げるほど深い関係になってからも、拓海の見せるドライバーとしての成長の片鱗や、車に乗っていない普段の拓海とのギャップに啓介は日に日に溺れている。
 信号待ちの間に拓海の横顔を眺めると、啓介の視線に気づいた拓海は恥じらいを見せてうつむいた。
「前見てないと危ないっすよ」
「誰に向かって言ってんだ」
 下げた窓から流れ込む風に揺れる髪をくしゃりと撫でてやると、赤くなった顔を向けてくる。
「キスしてーな」
 思ったままを口にすると、拓海は無言のまま顔をそらせて唇を尖らせた。

 駐車場に車を停めると、バトルの舞台にもなった道を拓海と並んで歩く。眼下に広がる景色にはところどころ綻び始めた薄桃色の花が太陽の光を浴びて白く光っている。ガードレールぎりぎりに立ち、眩しさに目元に手をかざしながら見下ろす。
「やっぱまだ咲き始めだったんじゃねーの」
「満開のころだと人も多いし男二人だと来にくいじゃないですか」
 拓海はそう言いながら啓介の隣で気持ちよさそうに伸びをする。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから切り出した。
「このあたりで見てたんですよ」
「へえ?」
「二台がもつれてぶっ飛んでくるみたいで」
「オレのほうが速かったけどな」
「すっげービリビリして、じっとしてらんねーなって思ったんです」
 拓海は懐かしそうに目を細め、笑みを浮かべる。
「その頃からオレのテクにメロメロだったっつーわけだ」
「……啓介さんが言うと意味が違うような気がする」
 啓介がからかうように言えば、拓海は呆れたような口調で返す。ひとしきり笑って、太陽の下を並んで歩き出す。春先とはいえ気温も高く、歩いているとじわりと汗がにじむ。 ぶらぶらと散策をしながら進み、公園敷地内の東屋にたどり着いたときにはいい具合に二人の腹が音を立てた。
 卵焼きやきんぴら、ほうれん草の胡麻和えやポテトサラダ、藤原豆腐店特製の厚揚げ。 店の商品でもある厚揚げ以外は自信なくてと頬を掻く拓海を前に、啓介は次々と頬張り腹の中に収めていった。味の心配よりなにより、拓海が作ってくれたということが啓介には嬉しかった。
「すっげー美味い」
 普段はファミレスに行くことが多いせいか、手料理の温かさに感動すら覚えた。舌鼓を打ちながらおにぎりを片手に呟くと、拓海は安心したように笑った。
 まだ五分咲きにもならない桜を見ながら、他愛もない話に花を咲かせて 弁当を食べ終えると、啓介はテーブルに伏せて目を閉じた。片手で拓海の手を握ることは忘れない。少し遠くのほうでは家族連れの笑い声が聞こえてくるものの幸いにも辺りは静かで、人影は少ない。 普段なら外で手を握ったり肩を抱いたり、そういったスキンシップを嫌がる拓海も啓介の手を振りほどくことなく、風で揺れる木の葉や、鳥の囀りを聞きながら、無言のままで手を握り合う。
「こういうの落ち着くなー」
 拓海の唇から本音がポロリと零れ落ちる。啓介は拓海の言葉に優しい笑みを返した。緩やかな風が頬を撫で、拓海は春のにおいを吸い込むようにゆっくりと目を閉じた。
「藤原」
「なんですか」
 声をかけると目を閉じたまま答える。啓介は上半身を起こして指先を絡め、手のひらをくすぐりながら拓海に問いかけた。
「なんか悩みでもあんの?」
「え? なんでですか?」
 驚いたように啓介の顔を見つめる拓海を、啓介は頬杖をついて見つめ返した。
「なんとなくな」
「――――、悩みっていうか、ですね」
 唐突な問いに、拓海は迷ったような表情を見せたあとうつむいた。あまり自分の気持ちを言葉にしない拓海が、不器用ながらぽつぽつと気持ちを吐き出し始める。啓介は黙って続きを待った。
「ここんとこ忙しくてあんまり啓介さんと会えてなかったし、……その」
 少しずつ頬が紅潮していく拓海を、啓介はじっと見つめ続ける。
「顔見て、一緒に……ゆっくりしたくて」
 拓海は慣れない仕事が始まったばかりで、それと同時にプロジェクトの活動にも追われる中、合間を縫ってやっと久しぶりに作れた二人の時間だった。啓介は拓海に会えない日々の淋しさを車を走らせることで紛らせたものだが、拓海も同じように自分を恋しく思って過ごしていたのだと思うと胸が熱くなった。
「元気になれるんですよ、啓介さん見てると」
 拓海は照れ臭いのか片手で顔を隠しながらそう言って笑った。啓介は腰を上げると、向かいに座っていた拓海の横に移動した。 ベンチをまたぐように座り、拓海を隣から見つめながらまた頬杖をついた。
「じゃーオレのこと見てろ、これからもずっと」
 顔を隠していた拓海の手を取り、指を絡めた。お互いに赤くなった顔で見つめ合い、そして笑いあった。
「キスしよ、藤原」
「……ここで、っすか」
「うん。して」
 笑い声をひそめ、拓海の指先に口づけて掠れた声でねだる。拓海はもじもじと膝をすり合わせて辺りを見回すと、ちゅっと軽く触れるだけのキスをした。
 ああ、こういうところがかわいくて仕方がない。
 啓介はたまらず拓海の手のひらにキスを送った。
「行くか」
「え、行くって」
「ゆっくりできるとこ」
 啓介としてはこの際こんなところでだって構わなかったが、やはり拓海のことを思えばそうもいかない。ベンチから立ち上がると軽くなった手提げの紙袋を持ち、駐車場への道を歩き始める。 拓海が小走りについてくる音を聞き、大きくなっていた歩幅を慌てて戻した。

 ホテルの部屋に入ってすぐ、啓介は拓海の体を抱きしめた。拓海の顔色はよくなっているとはいえ、まだ少し蓄積された疲労が残っているのは否めない。 首筋に顔を埋めながら背中を撫でてやると、拓海がほっと息を吐いて啓介の体を抱きしめ返してくる。
「啓介さんってアルファ波かなんか出てるんじゃないですか」
「なんだそれ」
「啓介さんの匂い、ほっとします」
 狙っているのかそれとも天然か、さすがの啓介も今日の素直すぎる拓海の言動は読めずにいた。拓海の吐息を首元に感じて自然と体温が上がる。伝わる鼓動は次第に速さを増している。じっと抱きついたまま動こうとしない拓海に、啓介は生唾を飲み込んだ。
「……もしもし拓海君、オニーサン先に進んでもいいのかな?」
 答えを待たずにシャツのボタンを外しながら、首筋や鎖骨を食んでいく。拓海はくすぐったそうに笑いながらベッドに倒れこんだ。 それを追いかけて覆いかぶさると、拓海は嬉しそうに笑って手を広げた。望まれるままぎゅっと抱きしめると、拓海のほうから脚を絡めてきた。
「好きです、啓介さん」
「おいおい、中身は本物の藤原かよ?」
 昇天しそうな嬉しさを押し隠してボタンを全開にしてはだけさせ、上気した肌に吸い付いた。指の腹で乳首を撫でながら体中のあちこちに唇を這わせていく。啓介の愛撫に、拓海の吐息には色が混ざりだす。
「ァ、啓介さん」
 赤い顔を上から覗き込むと、潤んだ目を向けてくる。ジーンズの中で窮屈にしている下半身の熱源にズキンと痛みが走った。
「藤原」
 暴走しそうな勢いを何とか理性で押しとどめ、目尻に浮かんだ涙に唇を寄せながら囁く。近づいた顔を包む拓海の手は熱く、見つめる顔には啓介を欲する熱が浮かぶ。 啓介の唇を指先でぷにぷにと押して弾力を楽しみながら見上げてくる拓海に口端を上げ、拓海の指を舐めてその先にちゅっと口づけた。手のひらから手首にも唇を這わせる。 顎や頬に唇を滑らせ、そのまま耳朶を食んだ。音を立てて舐め、息を吹きかけると拓海は小さな声を上げた。薄く開いた唇の隙間から覗く舌に誘われるように唇を合わせ、わざと焦らすように反対側の耳を愛撫する。 背中に回った拓海の手がぎゅっとシャツを掴んだのがわかった。
「あの、啓介さん、ちょっと待った」
「ん?」
 啓介は髪を撫でながら額を合わせ、啄むようにキスをして拓海の顔を覗きこむ。
「あの、……、くみ、って誰なんですか」
「……は?」
「この前、寝言で呼んでた」
「ていうか、え、誰?」
 突然の詰問に面喰いつつも、がしがしと後頭部を掻きながら拓海に視線を送った。友人関係、親せき関係、思い当たるすべての女性を思い浮かべてもその名前に当てはまる人物など一人もいない。
「そ、その人とは、その、どういう……」
 長い沈黙の後切り出した拓海の言葉に、啓介は頭が真っ白になった。呆然とした顔の啓介に視線を合わせた拓海が、きゅっと下唇を噛んでうつむいた。
 目の前にいるのは恋人のはずだ。確かに男同士で、世間一般からすればふつうではないかもしれないが、啓介が今付き合っているのは目の前にいる藤原拓海のはずだった。
「ち、ちょっと待てよ、ふざけんなよ。誰だよそれ、オレが聞きてえよ」
 啓介は拓海の体を抱き起して正面に座らせた。拓海は暗い表情のまま啓介の顔を見れないでいる。
「オレなんかあらぬ疑いかけらてんの?」
 黙ったままの拓海に、すうっと冷めていく熱を感じる。
「勘弁しろよ」
 啓介はベッドを降りてソファに移動すると煙草に火をつけた。ライターを乱暴に投げると灰皿にぶつかって床に転がり落ちた。 身に覚えもない浮気を責められ、甘い時間を取り上げられたことに憤りを感じ、しかもその原因が自分であるかのような状況を納得できずにぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し、吸い始めたばかりの煙草を苛立ち紛れに灰皿に押しつぶした。
 頭を抱えて拓海の言葉を反芻する。「くみ」という名前に、本当に心当たりがなかった。寝言で名前を呼ぶほどの人間を、思い出せないはずがないのに。
 なんとなく拓海が悩みを抱えているのではないかという啓介の勘は、やはり外れてはいなかった。まさかこんなこととは露ほども想像できなかったが。しばらく思考をめぐらせ、冷静さを取り戻した啓介はある答えに行き着いた。
「……啓介さん」
 拓海は足取り重くベッドを降り、遠慮がちに啓介の横に座った。膝の上でぎゅっと握られた拳は関節が白くなるほどで、沈黙の時間が息苦しかった。啓介はソファの上で体ごと拓海に向き直った。
「おまえさ、本当はそれ、昼間に言おうとしてた?」
 赤い目元を拭いながら問いかけると、コクリと頷いた。
「で、結局言わずに抱えてたのか」
「絶対ないって思いたいけど、やっぱどうしても悪い方にばっか考えちゃって」
「そんで余計なことぐちゃぐちゃ考えてたんだな?」
 唇を引き結び、また首を縦に振った。
「オレが好きか、藤原」
 顎を捕らえてまっすぐに見つめると、眉根を寄せて好きだと答えた。
「だったら、オレの気持ちは信じてくんねーのか?」
「だ、ってオレ……ッ」
 啓介はソファの端ぎりぎりに座った拓海の体を抱き寄せながらキスをした。胸を押し戻そうとする拓海の手を取り、指を絡めてキスを深めていく。
「ん、だめ……ッ、啓介さん」
「……くみ」
 その一言に、拓海が弾かれたように顔をそらせる。その目にはまたじわりと涙が浮かび始めた。啓介は拓海の耳にそっと唇を寄せた。
「おまえのことだよ、たくみ」
 啓介の言葉に、拓海の頬が赤くなる。 耳や首筋にまで広がって、拓海は困ったように息を詰まらせた。
「すげー好きすぎて夢でも見てたんじゃねーかな。正直覚えてねえけど」
 握りしめた手に力をこめて、目元やこめかみにも啄むようなキスを落とす。 拓海が啓介を見やると、啓介は赤い顔で唇を尖らせた。
「ま、紛らわしいんだよ、啓介さんのばか」
 安堵したように啓介の胸に飛び込んでくる拓海の重みを受けて、もろともソファに倒れこんだ。
「しょーがねえだろ、寝言なんだから」
 それを聞かれて恥ずかしいのはむしろ自分のほうだと啓介は今更ながらに照れ始め、自分の頬が熱くなっていくのを感じていた。あやすように背中を撫でていると、むくりと起き上った拓海が啓介にのしかかってくる。
「啓介さん、疑ってごめんなさい」
 拓海も啓介と同じように真っ赤な顔をしていた。指先で頬をつまんで笑いかけると、拓海も小さく笑みを見せ、肘掛けに頭を乗せた啓介にそっと唇を寄せた。
 じっと見つめ合い、触れ合わせていただけのそこが次第に深く絡みだす。 上下の唇を交互に挟んで、舌を口淫するように扱くと拓海の眉が切なげに寄った。はだけさせたままだった胸元から両手を差し入れ手のひらで肌を撫でれば、唇の隙間から熱い息を漏らした。
「あ……っ、は……ぁ」
 背中を撫でまわしながら抱き寄せ口腔内を貪るように舌を絡める。拓海は啓介のキスに懸命に応え、腰を揺らして啓介に体を押し付けた。ジーンズの上から尻を押さえつけて下から突き上げれば硬く主張し始めた部分が擦れ合った。
「ん、……ッ、ん、んッ、けぇすけさ……ん」
 拓海は上半身を支えていた手で啓介の顔を包み、乱れた髪に指を差し入れた。啓介は拓海の体をぎゅっと抱きしめ、そのまま腰をグラインドさせる。
「あ、あッ」
 逃げる体を押さえつけたまま喉元を舐め上げると甘い声が漏れた。拓海は小さく震えながら啓介の頬に唇を寄せ、首筋に吸い付いていくつも痕を残した。

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2014-04-05

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