寒月
峠上がりでプロの世界に入って数年、啓介さんは早々に現役を引退すると表明した。それはオレが想定していたよりもずっとずっと早くて、勝手に裏切られたみたいな気分になっていた。手元にある新聞がくしゃりと歪む。
病気や怪我が原因とは報道されてない。だからこそ、あれだけ速さを追い求めていた人が、走るのが好きな人がなんでこんなに早く引退なんかするんだ。そんな恨み節を頭の中で何度も繰り返した。
プロジェクトDの解散以降、Dのメンバーとはほとんど交流がない。だけど啓介さんが出場するレースの情報は追いかけていた。どんな小さな記事でも、見たくもないゴシップ記事ですら目を通していた。
スポーツ新聞に載った美人モデルとの熱愛報道記事、信憑性なんてほとんどないような記事にさえ動揺してしまうくらいにはまだあんたのことが好きなんだってこと、
こんなに長く会わないでいるなら、あの頃に言っておけばよかった。
会わなくなればこんな気持ちすぐに冷めるだろうと思ってたのに、ずっと忘れられずに想いを引きずっている。こんなことなら、さっさと当たって砕けてしまえばよかった。
啓介さんの引退記事を見てからのオレはそんなことばかり考えている。
スポンサー主催のパーティーは何度か出席経験はあるが、その華やかさには気後れする。今回はクリスマスパーティーと忘年会も兼ねられているようでさらに豪勢になっていて、ひときわ億劫だ。
外の寒さに比べて随分と熱気のある集まりで、各界の著名人と言われる人や、どこかの社長さんだかお偉い人、報道関係者とかとにかくいろんな人が入り乱れていて、人脈を広げる機会でもあるらしい。
こういう類のものはもっとも苦手とする舞台だ。必要最低限の挨拶回りはもう済ませている。できれば早々に帰路に就きたいくらいだ。
なるべく目立たないように会場の端から中を傍観して、ため息ついでに手に持ったままのシャンパングラスを小さく揺する。誰かが連れてくるのか、テレビで見たことのある芸能人が数人はいたりするものだ。
だから啓介さんが新聞で報道された人と会場に一緒にいたとしても、驚くことはないはずなのに。
久しぶりに見る生の啓介さんに、知らず緊張が高まってくる。レースの時でさえこんなにそわそわとした気分はあんまり味わうことはない。
不慣れな場所で懐かしい見知った顔がいるのが安心するとはいえ、相手は女性連れだ。気づかれたいような、知らんぷりをしてしまいたいような、そんな複雑な気分だ。
だけど目は啓介さんを追ってしまう。自分が一番知っている頃よりはずいぶん大人びた表情に変わっていて、フォーマルなスーツ姿に見とれているのはどうやらオレだけではない。
他の参加者に紛れてじっと見続けていたらその視線に気づいたのかふと顔を上げた啓介さんとばっちり目が合ってしまった。しまったと思うより先に、パッと花が咲いたように笑う啓介さんに捕まってしまった。
「よう、久しぶりだな」
すぐさま駆け寄ってきた啓介さんはオレの前で立ち止まり、懐かしそうに目を細めた。
「お元気そうで」
指先で頬を掻き、視線をそらしながらそう答えると、啓介さんはくすっと笑った。
「その癖、変わってないのな」
「え?」
「困ったときとか、照れたときとかよくやってた」
啓介さんはオレがやったのと同じように頬を掻くしぐさをしてみせた。
「あっ」
指摘されて初めて気が付いた。さっと手を下ろして背中に隠す。
「啓介さんも来てたんですね」
「ああ、オレ起業するからその顔つなぎでな。知り合いに無理言って口きいてもらってさ」
「……へぇ」
それが引退の理由なのか。
そう喉まで出かかって、ぐっとこらえた。
「藤原、ひとりか?」
「啓介さんは相変わらずモテてますね」
見渡すように会場の人溜まりに目をやった啓介さんに、唇を尖らせつつ答える。
なんだか嫉妬してるみたいだなと思いながら、シャンパンを口に含んだ。
「見られてたか」
啓介さんはくっと喉を鳴らして、スラックスのポケットに手を入れた。
「おまえだから言うけど、あいつ実は本命が別にいて、あ、ほらあそこ、今一緒にいるだろ。事務所に反対されてるとかで、オレはカモフラージュ」
「なんでそんなこと」
「メリットあるんだよ、お互い」
小声で打ち明けて小さく笑った。一緒に来てたあの美人モデルは啓介さんの彼女じゃないのか。分かったところでどうにもならないが、ホッとしてしまう自分がいる。啓介さんはオレに顔を近づけて、囁くように言った。
「抜け出さねえ?」
ごくりと大きな音を立てて液体が喉元を通り過ぎていく。無言で見上げると、啓介さんは真剣な目でオレを見下ろしている。
「え、でも」
「あいつのことなら気にしなくていいぜ。帰りは別だから」
連れ出してもらえるならこんなラッキーなことはない。だが相手が問題だ。いや、一緒に来てたのが彼女じゃなくて送る必要もないというなら問題はないのか。
そんなことに気を取られて即答できずに言い淀んでいると啓介さんが肩を組んできた。内緒話をするように耳もとに手をかざして顔を近づけてくる。
「オレ車で来てるんだ。久しぶりに峠行こうぜ」
こんな誘惑に勝てるオレなんてのはたぶん存在しないんじゃないだろうか。
2019-05-26
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