寒月 2
啓介さんのドライブは散々見てるけど、ナビシートに乗るのは初めての経験だ。
「車は何台か乗り換えたけど、コイツだけは手放せねーんだよな」
懐かしいあの日々の記憶と変わらない鮮やかなボディカラーの車に乗せられ、滑らかな動きで進む赤城の景色を眺めている。啓介さんもホームコースを走るのは久しぶりらしい。 機嫌がいいのが、オレですらよく分かる。
頂上地点の駐車場に停車して、二人で寒空の下に出た。冷えた空気で空は澄んで、星がやたらときれいに見える。
時期が時期だけにさすがに人影はなく、暖かそうなコートに身を包んだ啓介さんが寒い寒いと繰り返しながら自販機で缶コーヒーを買ってくれた。その小さな缶を両手で包んで暖を取り、他愛もない話に花を咲かせる。
肝心の引退話には触れられないけど、こんな風に同じ時間を過ごしていることが不思議に思えた。
会話に少し間ができたとき、啓介さんがふと真剣な表情になってオレを見た。
「引退決めたのはさ、正直なところたいそうな理由とかないんだよな。そのタイミングが来たって、まあほぼ直感なんだけど」
「なん、で急にその話……」
「何となく、知りたそうな顔してるなって思ったから」
啓介さんの目に未練は何も感じられない。潔さだけが際立っている。むしろオレのほうが惜しがっている。進むも退くも、他人が決めることじゃない。
それは分かってるけど、でもやっぱりまだ早いんじゃないかって気持ちを捨てきれない。
「起業って、現役のままじゃだめだったんですか?」
「オレは一度にあれこれこなせるタイプじゃないし、ひとつのことに集中したいんだよ。おまえも分かるだろ」
オレは啓介さんを見てられずにうつむいていた。頬に当たっていた風が遮られて、啓介さんの革靴が目に入った。すぐそばまで来ていた啓介さんを見上げて、思わず半歩後ずさった。
「勝手だけど、藤原には走り続けてほしいって思ってる」
「オレだってそう思ってましたよ!」
啓介さんの一言にカッとなって、思わず声を荒げて腕に掴みかかっていた。
「オレの前を走っててほしいって、ずっと追いかけてやるんだって、……思ってたのに」
啓介さんは柔らかく笑いながら言葉に詰まるオレの肩に手を乗せた。
「おまえの前を走るのはオレじゃないよ」
「なんでそんなこと言うんですか」
「現実を受け入れられるくらいには年取ったんだよ、オレも。藤原はもっと先のステージへ行ける」
「あんただってそうできるはずだろ!」
感情に任せて啓介さんの胸を叩く。こうやって気持ちをぶつけるのは初めてだけど、止められなかった。
「啓介さんがいたからオレは、……オレはッ」
こんな早い引退でなければ、いやたとえ事前に聞かされてたって、啓介さんが第一線から退くという事実を受け入れるにはまだ時間がかかると思う。
何年会えなくても、走ってさえいればまるであの夏のように隣に立ってともに戦っているという気持ちでいられた。辛くてしんどい日々も、啓介さんが走っていると思えばこそ耐えて来られた。
だけどこんなのは全部オレの勝手な都合で、願望でしかない。啓介さんの決心に触れ、それを痛感している。
「オレ、啓介さんが走ってるのを見るの好きでした」
呟くように言うと啓介さんは困ったように笑って、飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げ入れて歩き出した。
オレも後を追ってFDの近くまで戻り、愛車に凭れた啓介さんを見ながらやっぱりこの車が似合うな、なんてことを考えている。
「で、藤原は最近どうなんだよ」
「どうって何がですか」
「レースの情報は入ってくるけど、普段はどうしてんの?」
「別に普通です」
「普通ってなんだよ」
「普通は、……ふつうです」
「実は結婚して子供がいるとか」
「ないです」
突拍子もない発言に内心驚きつつ、呆れ気味に否定する。啓介さんは小声でそうかって言いながら妙に嬉しそうな表情になった。
オレが独り身だからって啓介さんが優越感に浸るようなもんでもないだろうに。
「でも好きな人はいますよ」
別に意地を張るところでもなかったのに、悔し紛れにそんなことを言ってみる。嘘ではないから、まあいいか。
「そう、なのか」
だからなんで啓介さんがそんなショック受けたみたいな顔になってるんだ。意味わかんねえ。
「啓介さんは相変わらずモテてるみたいっすね」
「ンなことねーよ。最近は寂しいもんだぜ」
「その割にはいろいろ書かれてるじゃないですか」
あのモデルが彼女じゃないにしても、オレが新聞や週刊誌で知ったのだけでも片手は余裕だ。
「へえ、意外。ちょっとはオレのこと気にかけてくれてたんだ」
「……別にそういうんじゃないっつーか、啓介さんが目立ってるだけっていうか」
さすがに好きだから情報探してたなんて啓介さんにバレるのはカッコ悪いから勘弁してほしい。
「そりゃそうか」
啓介さんはオレの言葉をあっさり信じ、ふぅ、と大きなため息をついてそれから少しさみしそうに笑った。その顔に胸がぎゅっとなる。
“ついにゴールイン”なんて見出しがいつ出るのかはっきり言って気が気じゃないってのに、オレって往生際が悪い。
今日が終わればどうせまた何年も啓介さんとは会わない日々が続くんだ。もしかしたらもう会うことだってないかもしれない。告白して驚かせるなら今しかチャンスはない。オレはそう思い直して、肚を決めた。
「オレ、啓介さんが誰と付き合ってるって記事出るたびにまたかよって思うくらいにはショック受けてましたよ」
啓介さんは目を見開いて、オレに向き直った。
「藤原?」
「相手はモデルとかきれいな人ばっかだし、ていうかそもそも男同士で望みがないことなんてわかりきってるのに勝手にムカついたり凹んだりして、こんなことならあの頃に言っておけばよかったってずっと後悔してました」
「おまえ、何言って……」
「あの夏からずっと、啓介さんのこと好きなんです」
どうだよ、啓介さんのこの顔。めちゃめちゃ驚いてる。狙い通りだ。
「あげくに引退だなんてってめちゃめちゃムカついて、……啓介さんに走り続けてほしいって、オレが言える立場じゃないのは分かってます。
啓介さんの決めたことなら仕方ないって、頭ではわかってるけど、でもやっぱりもっと追いかけていたかった」
正直な気持ちを吐露して、大きく息を吐いた。言いたいことは言った。あとは啓介さんから振られるのを待つだけだ。冷えた両手を腿の横でぎゅっと握って、震えを堪える。
「ずっと、追いかけてるのはオレのほうだ」
少しだけ困ったような顔で笑いながら、啓介さんは紺色の空を見上げて呟いた。
「啓介さん……?」
「おまえの気持ち聞いてから後出しなんてずるい話だけど、オレだってずっと藤原が好きなんだぜ」
「は、はぁー? つくならもっとましな嘘にしてくださいよ」
「嘘じゃねえよ。いまだに癖を覚えてるくらいには、おまえのこと見てたんだよ」
そう言って頬を掻くしぐさをした。照れてぶっきらぼうになる口調や、唇を尖らせるこの顔は、オレも覚えている。
まさかという思いで鼓動がどんどん激しくなって、息苦しい。
「で、でも」
「藤原のこと忘れたくて何人かと付き合ったのは否定しない。
けどやっぱりおまえに未練あるから他の誰にも本気になれなくて、いい加減そういうの止めようって思ってた。今日のパーティーに藤原が出るって聞いて、そこできっちりケジメつけようって腹くくったんだよ」
啓介さんは渋い顔をしながらそんなことを言った。少し気まずげな視線がそらされて、再び切れ長の目が戻ってきた。
「プロのドライバーじゃないオレはおまえにとってどんな存在だ?」
そんなこと考えたこともなかった。走っている啓介さんしか知らないオレは、その答えを持ち合わせていなかった。
「走ってない啓介さんなんか、想像できない」
「別に走るのをやめるわけじゃない。ただ車が趣味のオレに戻るってだけ。それでもいいか?」
「へ?」
「何の肩書もない、ただの高橋啓介でも藤原の恋人になれるかって聞いてる」
真剣なまなざしに月光が射している。その鋭さにかつての面影を思い出していた。
「こ、恋人って、ちょっと待ってくださいよ。オレこういう展開は予想してないっつーか、どうこうなりたいとかしてほしいとか、そういうんじゃなくて」
本当にただ告白して驚かせてやろうくらいにしか思ってなかった。振られて当然で、そのままさよならってのを想定してたのに、何でこんな展開になってるんだ?
混乱するオレを、啓介さんはぎゅっと抱きしめてきた。こんなに寒い日なのに耳まで熱くなる。
「ッ、あのっ?!」
「何のためにこんなとこまで連れてきたと思ってるんだよ」
「啓介さ……」
「オレが藤原に惚れてるってちゃんと理解してくれねーと、困る」
掠れた声がオレを包んだ。恐る恐る啓介さんの背中に腕を回して抱きしめ返すと、さらにきつく抱きしめられた。
「オレはおまえとどうこうなりたいし、この数年分を埋めるくらいまとめてアレコレしたいって思ってる」
耳に飛び込んでくる台詞の数々に混乱が収まらない。
啓介さんはゆっくりと腕の力を緩めて視線を合わせ、オレの腰を抱き寄せてキスをした。少し開いた唇の間で白い息が浮かんではすぐに消える。 何も言えずじっと見つめていると、啓介さんは力を抜いたように笑顔を見せた。
「車の中で話せばよかったな」
すっかり冷えた指先で唇をなぞりながらくすくすと笑う啓介さんに見惚れてしまう。啓介さんの鼻の頭は寒さのせいで少し赤くなっている。
形のいいそこに触れると、指先に啓介さんの唇が押し当てられた。オレはたまらず啓介さんをぎゅっと抱きしめた。腕の力を強めながらマフラーに顔を埋め、目を閉じてその感触に浸る。背中に回った腕の力が、より強くなった。
「こんなこと、あるわけないって……思ってました」
「オレのほうが驚いてるぜ。あの夏からっておまえ全然そんな素振りも見せなかったくせに」
「啓介さんだってDのときも、終わってからですら連絡くれたことないじゃないですか」
「それはお互い様だろ」
そうだけど。小声で言いながら啓介さんの首元に寄せた頭の角度を変えると、アイドリングで震えるFDの排気が風に流れているのが見えた。
「こうしててもまだ信じらんねーって感じです」
「じゃあ行こうぜ」
「行くってどこに」
「温まれるとこ」
「? サウナとかですか?」
「出た、天然」
後頭部を引き寄せられ、ちゅっと軽い音を立てたキスをされた。たった今気持ちを伝えあったばかりのこんな短時間で2回もキスしてきた。なんて人だ。
「この辺に今からでも部屋取れる宿あったよな」
「えっ」
「この状況で行儀よく帰すわけないだろ」
啓介さんはオレの肩を抱いたまま目当ての旅館らしきところへ電話をかけた。 無事に部屋が取れたのだろう、ご機嫌で頬にキスされた。
「温泉浸かって朝までゆっくりしようぜ」
耳元で囁かれて、ぶわっと頭のてっぺんまで血が上るのを感じた。もしかしたら湯気とか出てるかもしれない。冷たい手の甲で頬を押さえながら啓介さんを見上げる。
そんなオレを見て、啓介さんがふっと笑った。
「藤原に信じてもらえるように頑張らねーと」
「が、んばるって……」
「数年分のアレコレな」
余裕そうな笑顔が悔しい。オレにはこんな台詞絶対言えない。 何年経ってもオレはきっと啓介さんには敵わない。そんな気がする。
「じゃあもう、風邪ひく前に早く行きましょう」
悔し紛れにそんなことを呟いて、顔を隠すようにして啓介さんの胸に頭を預けた。
「絶対後悔させねえから」
うるさいくらいの鼓動の狭間で、啓介さんのそんな声が聞こえた気がする。
2019-07-07
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