キスミー!
「やっぱり無理ですよ……」
「何をいまさら。自分で言い出したんだろ」
「あ、あれは売り言葉に買い言葉っていうか」
「なんだよ男らしくねえな」
ここはとある飲食店の個室ブース。
個室ブースの中は少し狭く掘り炬燵式のテーブルで、カップルにおすすめと雑誌にも取り上げられるような人気店だ。
週末ということもあって店内は賑わっていて、押し問答を繰り返す2人の声は漏れ聞こえることもないだろう。
入口はロールスクリーンを下ろせば完全に仕切りができるためにプライバシーの確保ができるということでも話題になった。上から照らされる少しだけ絞られた照明のおかげでテーブルの下はほぼ真っ暗の状態だ。
啓介の長い脚は遠慮がちに下ろされた拓海の脚に無造作に絡められていて、時折わざとくすぐるようにちょっかいを掛けてくる。動きが見えない分、感覚だけが鋭くなっていく。
向かい合って座って脚が触れているだけだと言うのに全身を舐めまわして見られているような錯覚さえする。
「う……でもやっぱりここじゃ……」
「オレの努力を踏みにじるわけか」
「そういうわけじゃないです……けど……」
2人の間にあるテーブルには数枚のお皿が重なっている。中央には鉄板が空になってもその存在感を主張しながら、まるで渋る拓海を責めるように置かれている。
言葉尻が消えていく拓海に畳みかけるように啓介がきっぱりと言い放つ。
「分かってるだろうけど、オレは譲らねえよ」
普段なら頑固な拓海に対して仕方ないなという風に甘やかす啓介がこういうのだから見逃してはもらえないのだ。
氷が融けて薄くなったジンジャーエールを飲み干すと頬杖をついてまっすぐに拓海を見つめる姿勢に入る。その視線に捉まるともう抵抗できないということを拓海は本能で察知していた。
負けず嫌いという点でも2人は感覚が似ているが拓海のほうが少し頑固さは上だ。それでも今回は拓海が折れざるを得ない。
なんであんなこと言っちゃったんだろう……。
膝の上で握りしめた拳を見つめて自分の読みの甘さを恨めしく思いながら事の発端の記憶をたどる。
『啓介さんに食べられるわけないですよ』
席に着くなり興味津津にメニューに食いつく啓介をたしなめるために言ったはずだった。しかし啓介が拓海に劣らず負けず嫌いだという点をすっかり失念していたことは自分の落ち度だったと思う。
それでも3人前はあろうかというお好み焼き(目玉焼きやたこ焼きや焼きそばがトッピングされている)を20分以内に完食するというチャレンジメニューに挑戦するなんて誰が想像できるだろうか?
『何だと? やってみないと分からないだろ』
『絶対無理です。どうせ食べきれませんって』
『そこまで断言されるとなんか……いいぜ、やってやる』
『本気ですか? 絶対できませんよ』
『完食できたらご褒美にキスな』
『キスでもなんでもしてあげますよ。でもどうせ無理だし普通のメニューに……』
『おい、今の言葉、絶対だぞ。男に二言はなしだからな』
もちろんその言葉を取り消してもらえるはずもなく、燃える闘志と勢いのままチャレンジメニューをアッと言う間に平らげた啓介に今、じわじわと追い詰められている。
「本当にここでするんですか……」
「別のとこがいいっていうならもっと恥ずかしいことさせるけど? ……オレはそれでもいいけどな」
「……わっ、分かりました!」
脅迫めいた一言に覚悟を決めて、向かい合った席を立って啓介の斜め前へ移動するとその場に正座して再び膝の上で拳を作る。
拓海の背中側に個室ブースの入り口があり、何度も振り返って通路の様子を確認すると素早く啓介の頬へと唇を押し付け、瞬時に身を引いた。
「……………………」
「……………………」
沈黙に押し潰されそうになりながら啓介を横目で見上げると、心の底から不服そうな顔で拓海を見つめている。その表情から視線を遠ざけて呟いてみる。
「ち、ちゃんと……したじゃないですか」
「不当な評価だ」
顔が見えなくても口調で分かる。今、啓介はとんでもなく不機嫌になっている。
誤魔化すような軽いキスで納得してもらえるはずがないと分かっていても、個室とはいえやはり店の中では抵抗がある。
キスが問題なわけじゃない。場所が問題なんだ。そこを理解してもらいたいのに。
「だって……」
「ほっぺにチューでは、オレの頑張りが報われない」
勝手に頑張ったクセに! とはとても言えない拓海が今度は軽く唇に触れるように口づけた。
「……………………」
「……………………」
掠めるくらいにするつもりだったのに、拓海の頭を両手でがっしりと掴んだ啓介がそれを許さない。
角度を付けた啓介の顔が近づいてくるのが視界に入る。これから先に起こることを理解できているのに体が言うことを聞いてくれない。
再び唇が触れた瞬間周りの喧騒が消え去って、咄嗟に啓介のシャツにしがみついた。それに気を良くしたのか啓介の舌がさらに拓海の中へと押し入ってくる。
「う……ン、ふ……っ」
こんなところで、と思うのに啓介に触れられているとだんだんどうでもいいような気持ちになってくる。啓介の癖なのかキスの最中に耳朶を弄ってくるのが、拓海には堪らない刺激だった。
「み、み……やだ……」
力の抜けた手で啓介を押し返して離れたところで、ロールスクリーンの向こうから明るく元気な声がかかる。
「失礼します。まもなくラストオーダーのお時間ですが追加のご注文はございますか?」
拓海が慌てて元の席に戻ると啓介がクスクスと笑いながらスクリーンを引き上げて、現れた女性店員に愛想よくチェックを頼む。
ご満悦な啓介の笑顔に、女性店員の顔がみるみる赤くなっていくのを内心穏やかでなく見つめていたのはもちろん拓海だった。
そそくさと去っていく店員から拓海へと視線を移した啓介が、さらに満面の笑みを浮かべている。
「何ですか……」
「耳、ヤなんだ……?」
ボッ! という音が出そうなほど瞬時に真っ赤に染まった拓海が照れ隠しに乱暴な手つきで帰り支度を始める。
「どうかしたのか?」
信号待ちで止まったFDの中、バトルの時とは違う穏やかなハンドル捌きについじっと見入っていたことに気付く。
「いえ、何でもないです」
顔を逸らすと啓介の手がふいに耳朶に触れた。振り返るとバケットシートから乗り出した啓介の顔がすぐ近くまで来ていて、逃げ場のないナビシートに背中を押し付けるように閉じ込められて思わず目を閉じた。
唇が触れるか触れないかというぎりぎりの距離を保ったまま、啓介は一向に動こうとしない。その無言の間を不思議に思い様子を伺うように拓海がうっすらと目を開けると、啓介の口端が少し上がるのが見えた。
拓海がボリュームを落とした啓介の声に弱いと知っていてわざと煽るように問いかける。
「キスされると思った……?」
「へっ……あ、いや……その」
「たまには藤原からしてくれよ」
美形を前に緊張しない方法があるならぜひとも教えてほしい。心臓が立てる音を聞かれてしまいそうだ。
聞こえてきたのは後続車のクラクション。信号が変わったところだがまったく気にせず拓海を見詰めたまま動かない啓介はFDを発進させる気配すらない。
焦れた後続車が反対車線に大きくはみ出しながら勢いよく追い抜いていく。視界の端にそれを認めながら目の前の恋人から目が逸らせない。
「け、啓介さん……信号……」
「ああ」
「…………」
ゆっくりとした動きでハザードランプを点けると、指の背で拓海の頬を撫でながらそれでも動こうとしない啓介にそっと口づけた。
ただ軽く触れるだけなのに緊張で体が硬くなる。耳朶に触れてくる啓介の指のせいでもある。シャツの袖を掴むと唇を重ねたまま啓介がからかうようにクスクスと笑う。
「イヤ?」
「や……じゃないです」
からかわれるのが悔しくて、嫌がってると思われるのも嫌で、片手で啓介の首を引き寄せてキスをした。いつも啓介がするように
形のいい唇を甘噛みしながら首に置いた手を啓介の耳朶へと添わせた。冷やりとした感触に癖になるのが分かる気がした。
「啓介さん」
「ん?」
「……オレ……明日は配達ないんで……す、うわ!」
すべてを言い終わる前にFDが急発進したのは言うまでもない。
next2012-04-27
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