雨音の中で
別段珍しい光景ではないというのに、啓介が煙草に火を点ける仕草に、ひどく目を奪われる。キン、と夜空に響く金属音が風に乗って流れてくるように耳に飛び込み、つい振り向いてしまった。
オレンジ色の優しい光に照らされた啓介の顔は、少し眉間にしわが寄っている。一瞬でまた薄暗い闇に戻り、青白い外灯の明かりが頼りなく辺りを照らしている。
少しの間目を留めていたら啓介がこちらを振り返りそうになり、拓海は慌てて視線を引きはがした。目を閉じても浮かぶ、淡い光に照らされた啓介の残像を振り払うように、目の前に広がる夜景へと意識を集める。
バトルを控え、プラクティスももうまもなく切り上げる時間だ。空が白み始めると頼りなかった外灯はますますその存在を薄れさせた。簡単なミーティングを終え、今夜に備えて体を休めるようにとの指示が出る。
拓海はハチロクを山頂付近に広がる大きな駐車場に滑り込ませた。広さのある駐車場だが、端の方は木が生い茂りひっそりと体を休めるにはもってこいの場所だった。
片隅にクルマを止め、朝靄で視界の悪い中、車外に出て隣の駐車スペースの車輪止めに腰を下ろした。背後に広がる景色には目もくれず、ただアスファルトを見つめる。
まだ啓介の残像は目に焼き付いている。眉間にしわを寄せた、少し不機嫌そうな顔。拓海はあまり啓介の笑顔を見たことがなかった。
思い返す限り、険しく睨みつけてくる顔がほとんどで、笑いかけてくれたのはこのプロジェクトに誘われたあの日の、朝焼けの中だけだったのではないかとさえ思う。
太陽が顔を覗かせる前のひやりとした空気を切り裂くような咆哮が聞こえてくる。
(ああ、啓介さんだな……)
何の疑問もなくそう確信できていた。もうずいぶんと聞きなれた唸り声が、どんどん近づいてくる。
それにつられて、拓海は少しずつ緊張し始めた。
(まさか、ここに来るのかよ)
近くに車を停めて休むことはこれまでもあったが、なぜだか今日はそわそわとした気持ちが湧き上がる。そんな気持ちではできれば会いたくなかった。
隠れてしまおうかと思っても、一番端に停めてしまったせいで身を隠せる場所はなく、何よりハチロクは隠しようもなく、ただ眩しい車体が駐車場へと入ってこないことだけを祈った。
拓海の祈りは虚しく空振り、鮮やかなイエローが視界に飛び込んできた。ああ、ちくしょうと頭を抱える。数台分離れた場所に停車したFDから、啓介と、そして涼介が降りてきた。啓介は拓海を一瞥しただけで、涼介に向き直った。
「で、話ってナンだよ」
「啓介、おまえ70%も身が入っていなかっただろう」
拓海の存在に気づきつつも、二人は構うことなく話を始める。ぴしゃりと言い放つ涼介の言葉に、啓介はうっと息を詰まらせた。
「プラクティスから全力で行けとは言わないが、なぜ手を抜いた」
「手ぇ抜いたとか、そんなんじゃねえよ」
焦ったように否定しながらも、啓介はそのまま押し黙る。拓海は漏れ聞こえる声を聞かざるべきか、息をのんだ。
「本当にそう言い切れるのか?」
「それは、……っ」
啓介の苦しげな声に、拓海はぎゅっと目をつぶった。
プラクティス中、啓介の操るFDとすれ違うことがあるが、昨夜はそのたびに拓海も涼介と同じような違和感を覚えていたのは事実だ。
だからと言っても危うげなくプラクティスをこなす啓介が、バトルの前に涼介に詰められるとは想像すらしていなかった。
「すべてを犠牲にしろとは言わない。オレのゲームに付き合ってくれることに感謝もしている」
涼介は軽くため息をつきながら、腕を組んで一歩踏み出した。
「だが中途半端にこなすだけなら、啓介、おまえにはドライバーを降りてもらう」
「待ってくださいッ」
涼介の厳しい一言に、拓海は思わず立ち上がってしまった。
「藤原」
「あ、あの……」
何も考えずに声を上げてしまった拓海は、続く言葉など見つからない。あの涼介を相手に、何が言えるというのか。顔をひきつらせて啓介を見た。
きっと助けを求めるような情けない顔をしているだろう。しかし。
「な、何だよ、出てくんな」
啓介に冷たく言い放たれ、さらにはそっぽを向かれてしまって、拓海はでしゃばった真似をした自分を心底恨めしく思った。だが、啓介がドライバーをやめてしまうなんてことは絶対に納得できない。
この世界に自分を引きずり込んだ張本人が、何の理由も分からないまま車を降ろされてしまうなんてあってはならないことだ。そんな焦燥感に駆られていた。
「けど、……ッ」
「藤原、今すぐというわけじゃないから安心しろ」
涼介が穏やかな口調でたしなめながら、鋭い視線を啓介に戻した。
「啓介、恋煩いならさっさとものにして解決しろ」
「なッ、あ、アニキ藤原の前で何言ってんだッ」
「えっ? 啓介さん好きな人いるんですか」
「う、うるせー! お前は黙ってろ、ややこしくなるだろうが」
「そ、そんな言い方しなくても」
啓介のこんな照れた顔は初めて見るものだった。心配して損したと感じながらも、初めて見る表情に胸が高鳴った。
端正な顔が赤く染まるのを眺めながら、拓海はまさかと思いつつもこれまで抑え込もうとしていた感情に気がついてしまった。こんな形で気づきたくなかった。煙草に火を点ける仕草に、なぜあれほど目を奪われるのか。
他の人に向ける笑顔を自分には見せてくれないことがなぜ面白くなかったのか。知りたくなかったのに、それでももう理解してしまった。
(──啓介さんが、好きだ──)
理由なんてわからない。きっかけすらも、思い出せない。だけど気が付けば啓介のことでいっぱいになっていた。
拓海と啓介が言葉の応酬をしている間に、涼介はFDに乗り込んでいた。それに気づいた啓介が慌てて運転席に回る。
「おい、何してんだよ、アニキ」
涼介は運転席に収まっているのだ。ドライバーとして特別な場所に、いくら尊敬する兄だといえど譲れるものと譲れないものがあるのだろう、啓介からピリピリとした気配が伝わる。
「さっき乗っていて思ったが、少し試してみたいことがあるんだ。悪いな」
「だからって何で」
「藤原、悪いが約束の時間に啓介を乗せてきてくれ」
平然とそう言って走り去ってしまった。
涼介は啓介の言葉も拓海の返事も聞くつもりはなかったようだ。広い駐車場に取り残された啓介は、呆然と立ち尽くしていた。
拓海はどうしたものかと頭を掻きながら、啓介の背中を見つめた。
「最悪だ」
啓介がぽつりと呟いた言葉に、さすがにムッとする。好かれる覚えはなくても、嫌われるようなことをした記憶はない。そもそも好き嫌いを考えられるほどの関係でもないというのに。
だがこの状況、二人でいるこの現状が最悪とまで啓介が言うなら、拓海は自分で気づかないうちに一緒にはいたくないとまで思われるほどのことを啓介にしてしまったのだろうと怒りを通り越して悲しくなった。
恋心を自覚した途端に失恋決定というだけでも十分ブルーな気持ちになるというのに、この仕打ちはあんまりだ。
「藤原、おまえオレが一緒にいて休めるか?」
啓介は振り返るなりそんな疑問を投げてよこした。
「え?」
「バトルの前は一人でいたいとか、集中したいとかそういうのねえの?」
「オレはあんまそういうのないですけど」
「……あっそ」
素直に答えてしまったが、もしかして啓介はそういう性質だということだろうか。失敗した。
「あの、じゃあ下まで送りましょうか?」
「いや、それもアニキに何言われるかわかんねー」
啓介は難しい顔をしながらぶつぶつと独り言を繰り返し、車輪止めに腰を下ろすとシャツのポケットから煙草を取り出した。
シルバーのジッポを片手で覆い風を避けながら火を点けようと顔を傾げた。そこに、妙に色気を感じてしまうのが今まではなぜだか理解しがたかったが、拓海は目を離せないでいた。カチカチと金属が擦れる音がするだけで一向に火がつかない。
オイル切れだと啓介は舌打ちをして、立ったままだった拓海を見上げた。
「ライター、持ってねえよな?」
「はぁ……」
喫煙者でもない、未成年の拓海はライターを所持する理由がなかった。
が、ふと思い出したようにダッシュボードを漁った。
「あ……った」
手にしたのは樹が忘れていったマッチ箱だった。拓海はそれを啓介に手渡した。
「珍しいな。何でマッチ?」
「友達が忘れていったんで」
確か、今好きな子がはまっているらしいお香を始めたのだとか何とか言っていたような気がするが、詳しいことは忘れてしまった。啓介は慣れた手付きでマッチを擦ると、煙草に火を点けた。
拓海は啓介の隣の車輪止めに座るとはぁとため息をついた。この人の切なげに目を細めた顔は心臓に悪い。そんなことを思いながら足元の小石を摘まんで投げ飛ばした。
「サンキュ」
啓介の手が伸びてきて振り向くと、薄く笑った顔が見えた。ドクンと鼓動が早まってマッチを奪うように受け取った。
「あのさ……さっきの話、忘れてくれな」
「え、何の話ですか?」
「だからっ」
とぼけたふりをすると慌てたように一歩踏み込んでくる。
「……いや、まあ別に興味ねえだろうからいいんだけどさ」
言いかけて、やっぱいいやと離れていった。啓介に興味がないと思われている。
分かってはいたけど、本人に言われると少しショックだ。漂う煙草の香りを感じながら、涼介とのやり取りを思い出さずにはいられなかった。
「早く付き合っちゃえばいいのに」
恋煩いだなんて、似合わない。ましてやそれで走りにムラが出てしまうなんて、らしくないとさえ思う。啓介らしさなどほんの欠片しか知らなくても、それでもやっぱり啓介が誰かに片思いしているというのが不思議なくらいだ。
「なんでお前にそんなこと言われなくちゃいけねーんだよ」
「啓介さんが好きだっていえば断る人なんていないんじゃないですか」
「そんなわけあるかよ」
「でも」
少なくともオレなら断らないのに。そんな言葉を飲み込むたびに喉が焼け付く。いっそもう誰かのものだと思えたら無駄な期待などせずに済むのに、まだ卵から孵ったばかりのこの気持ちはほんの1%のチャンスすら望んでしまう厄介な猛獣だ。
「それでそいつが手に入るんなら何度だって言いてえよ。けどそういうんじゃなくてさ」
そこまで言って、啓介ははっと我に返ったように正面に向き直った。
ばつが悪そうに残り少ない煙草を吸い終えると、吸殻をスニーカーで踏みつぶした。拓海を相手にする話ではないとでも思っているんだろう。
(オレの気持ちも一思いにつぶれたらいいのに)
きゅっと口を引き結んだまま、拓海はもう一つ石ころを投げた。
音もせず消えてしまった小石が、惨めな自分に思えて鼻の奥がつんとする。
「なんて言っていいかわかんねーけど……今のままでも悪くねえっていうか」
啓介の恋愛観など聞きたくないと思うし、他の誰かを思う啓介を見ていたくない。けれども知らない一面を発見できるのは嬉しいし、もっといろんな顔が見たい。
矛盾した気持ちを抱えたまま、それでも今の啓介の言葉はまったくらしくないと、直感のようなものが拓海の中を駆け抜けた。
「それ、本心じゃないんでしょう」
「……うん」
ズキズキと、胸が苦しくなってくる。余計なお世話だと分かっているのに、これ以上心を痛めつける必要もないのに、なぜか唇は勝手に言葉を発していく。
「こんなことで啓介さんが走れなくなるのは、ご免です」
「分かってる」
啓介の心を占拠する誰かに嫉妬する気持ちは消えなくて、振られてしまえばいいのになんて意地悪なことまで考える。自分がすごく嫌な奴になった気分だ。
「いっそ当たって砕けちまえばいいんじゃないですか」
軽口のように言えただろうか。上手く笑えているだろうか。
「おま……、何で振られる前提なんだよ」
「自信があるならさっさと告白でもなんでもすればいいじゃないですか」
「それとこれとは話が別だろ」
「へー。啓介さんってモテそうなのにけっこう奥手なんですね」
「これでも一応いろいろ考えてんだよ」
「わーって突き進むタイプかと思ってました」
率直な感想を口にすれば、言われ慣れているのか、おまえもか、という表情を浮かべて深いため息をつくと長い脚を折り曲げて膝を抱えた。
「オレはさ、見てるだけとか、気持ち伝えるだけで満足するタイプじゃねえんだ」
小気味良いリズムから一転、トーンを変えた啓介を、拓海はじっと見つめた。
「勢いで押し切っても、結局相手が好きになってくれなきゃ意味ねえだろ」
「ああ、そうですね」
まっすぐに先を見据えて話す啓介が眩しかった。朝靄の残る駐車場の片隅で、片思いの相手となぜこんな話をすることになっているのか、不思議な気持ちで聞いていた。
「それに今はこのチームのこともあるしさ、半端にしたくねえって思ってたんだ」
「それは分かりますけど、それなら走りに迷いが出てたらダメじゃないですか」
「本当、痛いとこ突くよな。けどアニキの許可も出たことだし、藤原も応援してくれるみてーだし?」
口角を上げた顔を、この短時間で何度見ただろうか。皮肉なものでその笑顔は拓海に向けられたものではないような気がした。
「その人が、特別、なんすね」
少しだけ声が震えていたかもしれない。唇を噛みしめてうつむくと、啓介の大きな手が拓海の頭を撫でた。
「ああ」
きっぱりと言い切る啓介が気持ちよかった。啓介にそんなつもりはないにしろ、好きでいても無駄だと諭されているようだ。頭上に感じる重みを心に刻んで、気持ちに蓋をしよう。拓海はそんなことを思った。
「ケンタ迎えに来させるから、藤原もう休んでいいぜ?」
「え、啓介さんもハチロク使ってくださいよ」
「いいのか?」
「オレ、涼介さんから啓介さんのこと頼まれてるんで」
「アニキね……。ま、いっか」
啓介は立ち上がり服を払うと、拓海も続いて立ち上がった。
「藤原」
「はい?」
「今日はちょっと情けねえとこ見せちまったけど、おまえには負けねーから」
真剣な表情で見つめられ、ついさっきの決意は早速揺らいでドキドキしてしまった。啓介の見せたたくさんの表情を思い出しながら、ああいつもの啓介だと心が弾み、そして気が付いた。
拓海にだけ見せるその顔は、拓海ただひとりだけが見ることのできる、唯一無二のライバルとしての啓介だったのだ。拓海は自然と笑顔になっていた。
「オレも負けません」
その夜のバトルも無事に完全勝利を収め、コースレコードを打ち立てて撤収となった。
帰路に着くハチロクの中、拓海はポケットに入れっぱなしになっていたマッチを取り出した。
側薬の擦れた跡を見ながら、煙草に火を点ける啓介の顔を思い出していた。勝利の余韻とはまた違った興奮が拓海の中に湧き上がる。
理屈や常識などすべて無視して好きだと言えたらどんなにか。
自分の気持ちに気づいてしまった以上、なかったことには出来そうもない。本人には決して言えないし、伝えたところでどうなるものでもなければ、下手をすれば嫌悪されかねない。かといって他の誰にも告げられるはずもない。
気持ちに蓋をしようと思えば思うほど、逃げ場のない気持ちが溢れてこぼれ落ちてしまいそうだった。
幼いころに読んだ童話のように、地中に穴を掘ってそこに気持ちをぶちまけて蓋をしてしまいたい気分になった。拓海はもやもやとする気持ちを吐き出そうと大きくため息をついた。
手のひらに収まる小さな箱を振ってみると中身のマッチはもうあと数本のところまで減っていて、軽い音を立てている。
「あ」
拓海はいいことを思いついたというようにサンバイザーに挿していたペンを取り、信号待ちの間に箱を引き出してその箱の裏に小さく書き留めた。
──啓介さんが好きだ── この小箱だけが知る、拓海の大きな秘密だった。
書き終えてその字を見ながららしくないなと自嘲して、マッチを元に戻してダッシュボードの中に放り込んだ。樹はマッチ箱のことなどもう覚えていないだろうし、父親の文太も今は別の車に乗っている。この秘密を誰かに知られることなどきっとない。
拓海の代わりに秘密を抱え、貝のように口を閉ざし、誰に知られるでもなくいずれその役目を終えるだろう。そう思うと拓海は心が少しだけ軽くなった気がした。
2014-09-27
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