手のひら
「涼介さん、大変です啓介さんがッ」
慌てふためいた様子で、チームの司令塔である涼介のもとに飛び込んできたのはケンタだった。真っ青な顔をして、今しがた練習走行から戻ってきたFDを指さしている。
いつもならそのドライバーはすぐに車から降りてくるのに今夜は一向にその気配がない。パソコンを睨み付けていた涼介がハッとしたように立ち上がる。
ハチロクのセッティング待ちをしていた拓海もその尋常でない気配に嫌な汗が出るのを感じながらあとに続いてFDに駆け寄った。
「啓介、分かるか」
「……ん」
意識が朦朧としているらしい。
視線が定まっておらず、よくこの場所まで戻ってこれたものだと涼介は変なところで関心をしていた。
「大丈夫なのか、啓介は」
史浩が青い顔で覗きこむ。ケンタも顔面蒼白で今にも倒れそうな顔をしている。
「昨日の雨に打たれたらしいから熱が出たんだろう。誰か水を持ってきてくれ」
朝から少し調子が悪そうだとは思っていたが、まさかここまで悪化するとは涼介の予想を遥かに超えていた。
一晩くらい休んでいろとたとえ止めてもこちらの言い分など聞き入れるはずがないと分かっていても、一応は釘を刺しておくべきだった。
ここのところふさぎがちで、考え事をしているように焦点が合わないままじっとどこかを見つめていることが多かった。
割とオープンに何でも話してくる啓介が涼介に相談を持ちかけてこないのは一抹の寂しささえ感じさせた。
「何かほしいものはあるか、啓介」
バケットシートに身を預けていた啓介はその言葉に少しだけ目を開いた。
「……藤原」
しばらく考え込んだあと小さく小さく呟いたその一言を、涼介の耳だけが拾った。振り返ればFDを囲んでいるメンバーの一番外側で遠慮がちに佇んでいる拓海が見えた。
手招きをすると驚いたように左右を見回し、涼介が頷いて見せると拓海は困惑した表情でゆっくりと運転席のそばまでやって来た。
「啓介さん、風邪ですか?」
「たぶんな。昨夜雨に濡れたままソファで寝ていたからな」
涼介の言葉に、拓海が体を強張らせて息をのんだのが分かった。涼介は啓介に向き直り、肩を揺すった。
「啓介、立てるか」
何とか体を起こそうとしているが、力が入らないのか荒い息だけが返ってくる。
可愛げのない大きさに育った男を抱きかかえるのは至難の業だ。とにかく車から降りてもらわなければ話にならない。
「け、啓介さん大丈夫ですか」
心配そうに声を掛ける拓海に啓介が反応を示した。
ゆっくりと顔を起こし、拓海に視線を合わせる。拓海はほんのり顔を赤くしながらその様子を見守っていた。
「藤原、悪いが啓介を送ってもらえないか」
「えっ、えっと、それは、ぜんぜん大丈夫ですけど」
涼介の言葉にしどろもどろに答え、指先で頬を掻いている。涼介は拓海の答えに小さな笑みを返し、啓介を半ば強引に立ち上がらせた。車から降り立った啓介は揺ら揺らとふらつきながら、それでも前に進もうと足を踏み出す。
ぐらりと揺れた体が、拓海に向かって倒れかかった。拓海は咄嗟に手を伸ばして啓介の体を支えた。
「わ、熱ッ」
「啓介、藤原が送ってくれるそうだ。FDはオレが運転するが、構わないな?」
「……ん」
啓介が拓海の体にしがみつくようにして抱きしめているのを複雑な思いで見ながら、涼介は啓介に肩を貸し、拓海はその反対側で体を支えた。
ハチロクの助手席に長い脚を納めてドアを閉めると、涼介は拓海に自宅までの地図を渡した。皆が見守る中ハチロクは静かに走り出す。それを見送ってからメカニック班と史浩を集め、撤収の号令を出してその場を解散した。
涼介に手渡された地図を頼りに峠を下る。助手席の啓介は道案内などまったくできそうにないほど辛そうに荒い呼吸を繰り返している。
「昨日の……オレのせいなんですか、啓介さん」
下唇を噛み、呟いた。
涼介についていけばいいのだと決意したあの冬の日。漠然とただ速くなりたいとだけ考えていた。こんなオレが、とどことなく罪悪感に似た気持ちを抱いていた。
だが走ることの楽しさも、拓海が本当は運転が好きなのだと自覚させたのも他ではない啓介だ。
新しいチームへの参加を決めてから、片手で足りるほどではあったが啓介と二人だけで会うことがあった。おまえとは敵だけどこの一年は休戦だな、と笑みを浮かべて誘ってくれたのだ。
たった数回会っただけでも啓介が走りに、そして涼介に懸けている情熱の片鱗を知り、拓海の目標はより一層クリアになった。
すごい人なんだとただ尊敬するだけの存在ではなく、追いつきたい、背中を追わせてほしいと思わせてくれる、そんな貴重な相手に啓介はなったのだ。こんな短期間で。
だからこそ昨日の啓介を許せなかった。裏切られたような気持ちになったのだ。
どんよりとした曇天が頭の中を覆い尽くしているような気分で、アクセルを踏む右足から力が抜けそうになる。ふいに啓介が咳き込み、苦しそうに呻く。拓海は残像を振り切るように頭を振ってステアリングを握り直した。
超特急で高橋邸に辿りつき、階段で何度か足を踏み外しそうになりながらも何とか啓介を支えて部屋に入る。
「ふじわら」
うわ言のように何度も名前を呼ぶ啓介が、拓海の体をぎゅっと抱きしめてくる。
耳元で名前を囁かれ、鳥肌が立った。嫌悪ではないことに拓海自身が驚いた。
「藤原、おまえ本物か?」
「熱でおかしくなってんですかね」
拓海の答えに啓介が柔らかく笑って、まるで大切なものを扱うように、手のひらが優しく髪を撫でた。これまで一度だって体が触れたことはなかった。
肩がぶつかることさえなかったのだ。初めて知る啓介の温度に、拓海は緊張を抱いていた。
「とにかく横になって、あ、その前に着替えたほうがいいか」
勝手にすみませんと心の中で謝り、散らかった部屋の中からきれいそうな服を引っ張り出してベッドに腰掛けた啓介に手渡す。
無意識だろうが着替えようとする啓介の腕はまったく上がらない。見かねて手伝い、パーカーを脱がせた。汗をかいたTシャツも脱がせるときれいに筋肉がついて引き締まった体が視界に飛び込んできた。
なぜ男の裸を見て動揺するのだと拓海は自分にツッコミを入れながら視線を引き離して着替えさせた。寝顔は辛そうだが、布団をかけてやりながら一仕事終えたような心地になる。
大量の服に埋もれたイスを引っ張り出して、ベッドから少し離れた場所に座って啓介の寝顔を眺めた。
『好きなんだよ、藤原のこと』
突然の告白だった。
人付き合いがさほど得意ではない拓海が打ち解けられたのは啓介の性格によるところが大きかった。
ドライバー同士にしか分からない分かち合える何かがあるとぼんやりとではあるが感じていた。何にせよ拓海にとって啓介が特別な場所にいることは間違いがなかった。
だがそれは友情やまして恋愛感情などとはかけ離れた場所であるように思っていた。始まったばかりの新しいチームで、さあこれからというときに啓介が男である拓海に好きだと告白してきたのだ。
啓介と出かけた回数といえば片手で足りるほどだった。いったいいつ啓介の気持ちがそのように変化してしまったのか、皆目見当がつかない。
ショックだった。なぜかは分からないが、ただ、悲しかった。言葉に詰まって何も言えなかった。悔しくて涙が出そうになった。
涼介のために全力で走りたいと言っていたはずの啓介が、なぜ、なぜ。そればかり考えた。
ごめんなさいと、ただそれだけを口にしてその場を逃げ出した。雨の中走り抜けて、追いかけてくる啓介を振り切って懸命に走った。捕まらないように、走って走って、何とか逃げた。呼びかけには答えず、電話にも出なかった。
そのあと啓介がどうしていたかは分からなかったけれど、涼介の言うとおり雨に打たれていたのならばそれはきっと自分のせいだと拓海は頭を抱えた。
「行くな、よ」
「啓介さん?」
駆け寄ってみると、啓介の視線が彷徨っている。途切れ途切れに名前を呼び、手を伸ばしている。
「……じわら、い、くな」
心臓を直に鷲掴まれたような息苦しさに、眉根を寄せる。
「ここにいますよ。ちゃんと、そばにいますから」
啓介の手を握ってそんなことを答えていた。一瞬だけ啓介の目が開いて拓海を捕らえ、安堵したように笑うと呼吸が落ち着いて静かに眠りに落ちていった。
握り返してきた手をゆっくりと解き、布団の中に戻してやった。拓海はフローリングに膝をつき、ベッドに顔を押し付けて声を押し殺して泣いた。
「藤原、迷惑をかけたな」
体を揺すられて、そのまま寝てしまっていたことに気づく。パッと顔を上げ啓介を見ると、変わらず眠りの中にいるようだ。視線を横に移すと涼介がいた。
「迷惑なんて、ぜんぜん」
オレのせいですとは言えず口ごもる。涼介は拓海の肩に手を置いて部屋を出るよう促した。拓海は黙って頷き、涼介について廊下に出る。
「腹が減ったから付き合ってくれないか」
「え?」
「啓介にも何か食べさせないといけないしな」
シャツを腕まくりしながら涼介がほほ笑む。
「え、涼介さんが作るんですか?」
「簡単なものしかできないけどな」
言いながら階段を下りる涼介に誘われるまま広いダイニングへと通された。藤原家の居間と台所がすっぽり収まってしまうような広さに圧倒されながら縮こまるようにして見るからに高級そうなイスに座った。
涼介は食事の間中も拓海に何を聞くでもなく、ただ車のことと他愛のない世間話を選んでいるようだった。前にも思ったことだが、涼介は近くで見ると恐ろしく格好いい。
威圧的ではないがまとう空気のせいか存在感があり、どこか一線を画すような雰囲気で、ソワソワと落ち着かない気分にさせる。啓介はそんな涼介とは対照的だった。面倒見が良くて壁がない。そんな印象だった。
食事の礼にと後片付けを買って出た拓海は、広いキッチンで洗い物に精を出していた。リビングの扉が開く音が聞こえ、ドサリとソファに物体が落ちるような音も聞こえてきた。
「アニキ、水くれ……」
拓海は咄嗟に水を止めて息をひそめてしまった。リビングから見えないこの場所で、隠れるつもりはないのに見つかりたくないという気持ちも湧きあがる。
テーブルでパソコンに目を通していた涼介はソファの上から啓介を覗きこんだ。まだ頭がはっきりと働いていないらしいのは見て取れる。
「粥を作ったが、食えるか」
「……ごめん食欲ねえ」
「そうか」
「なぁオレどうやって帰ってきた?」
「藤原に送ってもらったんだ」
涼介の言葉に啓介が飛び起きた。次いで口元を押さえ、ソファの背もたれに突っ伏した。
「いきなり動くからだ」
涼介が啓介の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわしている。拓海はそれを目撃してぎょっとした。兄の顔をした涼介を初めて目の当たりにしたような気がする。啓介も大人しくされるがままというのも信じがたい光景だ。
「オレ、あいつのこと困らせた」
「ん?」
「あんな顔させたかったんじゃないんだ」
憔悴しきった声で、啓介は再びソファに沈んだ。
涼介はフッと笑って冷蔵庫からペットボトルを取り出した。出ていくタイミングを完全に逸して立ち尽くす拓海に粥を部屋に持っていくよう小声で言づけてキッチンを出て行った。
涼介が気をそらせてくれているうちに、拓海は忍び足で啓介の部屋に移動した。コソコソするのも変だと思うが、あの打ち明け話は自分自身は聞いてはいけないような気がした。
拓海がキッチンから姿を消したのを確認して、涼介はソファの背もたれに腰を落として啓介を見下ろした。
「ここ最近の不調は藤原が原因か?」
「……ちげーよ」
「タイムはバラバラ、課題も落第点だぞ」
「悪いと思ってるよ」
ぐっすり眠って幾分ましになったのか口調はずいぶんはっきりとしてきた。
「この一年はアニキの夢のために全力を尽くしたいって思ってるんだけど……なんかうまくいかねえ」
「そうか」
「他の事に現を抜かすなって言ってくれよアニキ」
「それで諦められることならすぐに飽きるさ」
赤い顔にペットボトルをひたりと押し付け、涼介は腰を上げた。
滑り落ちるボトルを反射的に受け止めた啓介は難しい顔のまま階段を上って行った。
涼介はそろそろ雛鳥が巣立つようだと少し笑って、玄関まで響いてくる啓介の素っ頓狂な叫び声を聞きながら笑いをかみ殺して家を後にした。
「なに、何でオレの部屋に藤原が居ンだよ」
部屋の扉に背中をぴったりとつけ、引きつった顔で拓海を見ている啓介にどう返事していいものかと頬を掻いた。
「お、お邪魔してます」
拓海はとりあえずぺこりと頭を下げて、涼介の作った粥を差し出す。啓介は頭痛の復活を感じながらじりじりと遠回りしてベッドに入った。トレイごと受け取り少し冷めてしまった粥を平らげる。
土鍋の隣に置かれた錠剤も胃へと流し込み、ペットボトルのふたをきゅっと閉じた。拓海はじっと黙ったままその姿を見つめていた。病人だけど食べ方はいつも通りきれいなんだなと妙なところに啓介らしさを見出そうとしている。
「なんか、世話掛けちまったみたいで悪かったな」
ようやっと啓介が言葉を絞り出した。照れくさいのか視線は合わさず、唇を突き出すようにして髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回している。
さっき涼介がしたのと同じくらい乱暴なしぐさだった。触ってみたいという好奇心がわいてきて、拓海は慌てて自分の右手を押さえつけた。
「いえ、……涼介さんにも頼まれたし」
「アニキが言ったからここにいるのか?」
「え、あっ、いえそんなことは」
慌てて否定すると啓介は疑うような目で拓海を見つめる。
「別にどっちでもいいけど。移しちゃ悪いしもう帰っていいぜ」
ふてくされたように言って頭まで布団に潜りこんでしまった。拓海は居心地の悪さを感じてトレイをシンクへと持って降りた。
無心で洗い物をし、やることもなくなってこのまま本当に帰ってやろうかと考えていた。階段の下でしゃがみこみ、膝を抱える。
「どうしろってんだよ」
拓海の呟きは広いエントランスホールに小さくこだました。
膝を抱えた腕に頭を乗せて目を閉じる。苦しそうな顔で行くなと言った啓介を思い出す。そばにいると答えたあとの笑顔まで浮かんできて、拓海はぎゅっときつく目を閉じた。
春でも夜はよく冷える。長袖のTシャツ一枚では肌寒く、自分の体を抱き込むようにして腕をさすった。途方に暮れた気持ちで壁に寄りかかって階上を見やると啓介が部屋から出てきた。目が合って、拓海は思わず体を揺らした。
「何やってんだよそんなところで」
「べ、別にもう帰りますから」
「おまえに風邪引かせたらアニキに合わせる顔ねーよ」
啓介が階段をゆっくりと降りてくる。音だけでそう判断しながらもそこから動けないでいた。
啓介は拓海の座る踏板の一段上に腰を下ろし、脚の間に閉じ込めるようにして背中から抱きしめてきた。まだ熱があるのか、体温が高い啓介に包まれ、拓海の鼓動は一気に跳ね上がった。
「こんな冷えちまって。バカだな」
言葉はアレだが、口調はとても優しかった。拓海は目頭が熱くなるのを感じていた。
「アニキの言いつけなんか守んなくていいよ」
「で、でも、そういうわけにも」
「寝てりゃ治るんだからオレなんかほっとけばいいんだって」
「そりゃオレなんかここにいたって役に立たないかもしれないけど、心配くらい、させてくれたって……」
「あんま……期待もたせるようなことしないでくれよ」
思いつめたような啓介の言葉に、拓海は何も言えなかった。ぐっと唇を噛み、体を強張らせた。喉まで固まったように息さえできず膝を抱える腕に力をこめた。
「藤原に言うつもりは本当になかったんだぜ。ごめんな、黙っててやれなくて」
そこまで言って言葉に詰まった啓介は唇を噛みしめた。好きになったことは後悔していない。関係の変化を望んでいないと言えば嘘になるが、拓海を悩ませるのは本意ではなかった。拓海を抱きしめる腕に知らず力が入る。
たとえ病人に対する同情だったとしても、今だけは逃げないでいてくれることに得がたい喜びを感じている。
「け、啓介さんのことはすごいと思うし、オレのなかでは特別な人です、けど」
言葉が震える。唇がうまく動かない。拓海は慣れない他人の、しかも自分に好意を寄せているという啓介の温度に戸惑いを隠せなかった。
「ごめんなさい、れ、んあい感情じゃ、ない」
「分かってる。藤原が謝ることなんか何もねえよ」
胸の痛みを堪えながら、啓介は拓海の髪をくしゃりと撫でた。
振ったのは拓海の方なのに今にも泣き出しそうな拓海を啓介が慰める。そんな図式は変だと思いながら、拓海は優しい温もりを手離すことができなかった。
2015-10-01
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