手のひら 2

 啓介と拓海の関係は、ずっとダブルエースのままだった。
 今までと同じように切磋琢磨し、互いを高め合い、ドライバーだけの昂ぶりや緊張感を視線で分け合う。バトルの最中ですらいつも脳裏に焼き付く何者にも代えがたい相手の存在があった。 さすがに二人で出かけることはなくなってしまったが、拓海にとって啓介は絶対に負けたくない相手であり心の拠り所で、啓介にとっても拓海の存在は走り続けるうえでの支えで糧でもあった。
 余計な禍根もわだかまりも見せず、啓介は与えられた課題をきちんとこなし、走りにストイックなほどに打ち込んでいた。 今まで嬉々として出かけていた休日はほとんど走り込みに充てられている。拓海も負けじとドラテクを磨き、涼介の見込み通り二人は恐るべき成長を遂げようとしていた。
 先日の遠征で、相手の卑怯なトラップとはいえFDが走行不能に陥りピンチを迎えたが、啓介の意地が奇跡を引き寄せて勝利した。 相手の実力はバトルの相手としてはまったくもって物足りない程度であったが、あの出来事は啓介をまた一歩大人へと成長させた。
 これから先のバトルはさらに熾烈を極めるものになる。 あの二人がエースドライバーとしてどこまでのことを成し遂げてくれるのか、理屈や理論ではない、天才的なひらめき、直感的な瞬発力と機転で何か大きなことをやってくれるという期待感が日に日に涼介の胸中で膨らんでいる。
「アニキ、入るぜ」
 涼介がパソコンの画面からふと視線を外すのとほぼ同時に涼介の部屋をノックしたのは啓介だ。たいてい返事をする前に扉は開かれる。
「朝から起きいてるなんて珍しいな、啓介。出かけるのか?」
「今日はどこも行かねえんだろ? 車借りるぜ」
「オレの車をか?」
「この前のバトルの礼、返してくる」
「ああ」
 埼玉のあの子か。涼介はほとんど事後承諾と言っていい依頼に小さく笑った。
「どうするつもりだ」
 足を組み、啓介のほうへ向き直りながらそんな言葉を投げてみる。 当の本人が追いかけるほうが好きな性分のせいかまともに付き合っている相手がいると聞いたのは数えるほどしかなかったが、啓介がモテるのは今に始まったことではない。 今までこんな踏み込んだ会話をしたことがなかったせいか、答えを待っていると啓介はドアノブをぎりっと音がするほど握って渋い顔をした。
「あっちがだめならこっちなんて真似しねえよ」
 悲壮感を漂わせるほどの表情が扉の向こうに消えていった。 啓介が拓海を好きなことを直接認めたことはないが状況だけで十分に理解できる。啓介が倒れたあの日の拓海の様子から、万が一の可能性があってもおかしくはないと踏んでいた。 だから今まで以上に走りに打ち込んでいるのも、結果を出すことで指揮官である自分に認めさせるつもりなのだろうとさえ考えていた。 よもや振られて決着がついているとは、二人がどんな結論を出そうと受け入れるつもりであった涼介にとってはむしろ意外だと言ってよかった。
「読みが外れたか」
 まもなく大がかりな改造を終えたFDが戻ってくると史浩から連絡が入っている。走りに支障が出ていない以上、口を出すべきではなかった。涼介はパソコンを前に片手で顔を覆った。

 真っ暗な部屋に戻ってきた啓介は、疲労とともにベッドになだれこんだ。なんだか何もかもがうまくいかない。そんな思いに支配されていた。忙しなく寝返りを打ちながらもやもやとした気持ちの行き場を探す。
 天井を見つめたまま、啓介は大きくため息をついた。
 予想していたとはいえ、泣き顔は見ていて気持ちの良いものではない。断る側とて心は痛む。自分の身に起きたこととシンクロして重く心にのしかかる。
 拓海は恋愛感情ではないと答えてくれたがもしかしたら拓海もこんな思いを抱えてくれたのだろうか。 ダメならきっぱりとそう言ってくれるほうが嬉しいと頭では分かっているのに、今までそう思ってきたはずなのに、感情が理解を拒む。物分かりのいい振りをして結局はただいい恰好をしただけだ。 拓海に対するこの気持ちは恋愛感情ではないと言えたらどんなによかった。
 兄が新しいチームに拓海を誘うと言ったとき、まさかこんな気持ちになるとは考えもしなかった。自覚したときには話すんじゃなかったとさえ思った。今さら考えてもどうしようもないことまで頭をよぎる。 拓海が涼介に対して特別な気持ちを抱いているとは思わないが、兄を見て頬を赤くする拓海に対する怒りにも似た感情がただの勘違いだと思えたらどれだけ楽になれるだろうか。
「先に見つけたのはオレなのにな」
 二人が一緒にいるところを見るだけで余裕がなくなったりするなど想定していなかった。好きになった相手が兄に惚れるという経験が幾度とあったせいか、ありもしないことを頭が勝手に想像してしまう。 なのに拓海の顔を思い出すたびに彼を欲する思いは強くなるばかりだ。
 誰とも付き合う気がないというのは間違いなく本音だ。自分を追い込まなければDのドライバーは務まらない。その気持ちに嘘はないが、誰が来ようともう無理だ。拓海以外は誰もいらない。 自分の気持ちを口にすることでそのことがより明白になった。
 心を奮わせるのはこの世でただひとり。それを確信するだけだった。
 握りしめた拳が額の上で小さく震えた。 拓海の前に出る以上、こんな未練は悟られたくない。余計な気を遣わせることも、同情されることもプライドが許さない。今までも平然を保ってこれたのだから、これからもそうしてみせる。 そう思いながらも、月明かりがさしこむ部屋で、啓介はその場を動けずにいた。FDのない今、もやもやとした気持ちを晴らす手段さえ持ち合わせていなかった。

 ハチロクの調整を理由に赤城に呼ばれた拓海は、手持ち無沙汰で時間を持て余していた。ケンタと史浩は拓海の隣で何やら話し込んでいて、時折啓介という単語を耳が拾うがその内容はほとんど頭に入ってこない。 啓介もFDもいないせいか、今日は思うように身が入らないのだ。地元の秋名を走っているときであればそう感じないが、やはり啓介のホームである以上、そこにいるのが当たり前のように思っていたらしい。
「藤原、何か気がかりでもあるのか?」
「あっ、すみません、何でもないです」
 忙しい時間を縫って涼介も顔を出しているというのに、気の抜けように自己嫌悪に陥る。松本のゴーサインを受けハチロクに乗り込み、仕上がりのチェックも兼ねて赤城の下りを攻めていく。
 会いたいわけじゃない。決して寂しいわけじゃない。ただ物足りない。あの射抜くように熱い視線がないからだ。張り合いがないだけだ。
「やっぱり付き合うでしょ、あの子と啓介さん!」
「啓介がそう言ってたのか?」
「いえ、けどオレの堪は当たりますよ、絶対。だって啓介さんも満更じゃない顔してましたもん」
「それはまあ、そうだけど」
 よりによってなぜかその会話だけが耳にこびりついてしまった。ステアリングを握る手に必要以上の力が入る。拓海は胸の痛みをごまかすようにきゅっと唇を結んだ。
 解散のあと、渡したいものがあるからと涼介に呼ばれ、史浩も連れ立って高崎の豪邸までやってきた。啓介が倒れた時に訪れた以来のことで、見慣れぬ場所に自然と背筋が伸びてしまう。 重厚な玄関の扉をくぐれば、高い天井まで続く吹き抜けと階段が目に飛び込んでくる。啓介とのやり取りを思い出し、拓海は知らず顔を赤く染めた。史浩に続いてリビングに入り、革張りのソファに腰を下ろす。 涼介は待っていろと言い置いて階段を上がって行った。
「あれ、来てたのか」
 涼介とほぼ入れ替わりに、風呂上りらしい啓介がリビングに姿を現した。史浩と拓海を交互に見て、顔を隠すようにタオルで濡れた髪を拭いている。 寛いだ姿の啓介に、拓海は慌てて視線をそらせた。耳まで熱くて仕方ない。なぜそうなるのか分からない。啓介は平然としているのに、自分ばかりが意識してしまっているようで居た堪れない。
「元気そうじゃないか。そういえばケンタが興奮気味に話してたぞ、あの子のこと」
 史浩がそう切り出したとき、次の遠征先の資料を手にした涼介がリビングへと入ってきて、拓海は心底ほっとした。そして、そこで気づいてしまった。 涼介の言う気がかりが何だったのか、やっと理解したのだ。
 ただ、聞きたくなかった。啓介にとって拓海がもう特別ではないと思い知らされる言葉を聞きたくないと思ったのだ。

 待ちわびたFDの帰還に心は躍り、手応えを噛みしめようと赤城と言わず手当たり次第に峠を回った。夜通し走り続けて気づけばもう夜明けも近かった。啓介は何かに導かれるように秋名の峠にまで来てしまっていた。 秋名の幽霊を探していたあの夏と同じ暗闇が朝焼けの淡い光と交わり始めている。5連続ヘアピンを見下ろせる場所に停車し、ガードレールの前に立った。
 一年前の自分に今のこの状態が想像できただろうか。 男に恋をして、振られて、もどかしさを振り払うことも寂しさを埋めることも、忘れることさえできず、ただひとり悶々と燻っているなんて。自分がこれほどまでに情けない男に成り果てているだなんて。
 愛車にもたれ、天を仰ぎ見る。緩やかに流れる雲が光を反射し始めているのをぼんやりと眺めていた。朝焼けの空に甲高いスキール音が響き、それが少しずつ近づいてきている。啓介はハッとして音のする方へと視線を移した。 薄闇から現れたのは想像通りのパンダカラー。その挙動は一目でわかるほど正確無比なラインを描いている。ビリビリと闘争心を奮い立たせるほどのオーラを放ち、啓介のすぐ隣を走り抜けていく。 鮮やかに流れていくテールランプの残像が一転、ハチロクはスピンターンで啓介の前へ戻ってきた。あのまま通り過ぎてくれてよかったのに。そんなことを思いながら、啓介はドライバーが転がるように出てくるのを黙って見ていた。
「あ、FD、戻ってきたんですね」
「ああ。速いぜ、こいつは。これなら藤原にも負けねえよ」
 無理やりにでも笑顔を作ってみせると、拓海もほっとしたように薄っすらと口端を上げた。啓介は性懲りもなく高鳴る鼓動を押さえたくて、咳払いをするふりをしながら視線をそらせた。
 お互いが何を話すでもなくただ沈黙が続いて、日射しが二人をゆっくりと照らしていった。 眩しさに目を細めながら顔を上げると、寝起きのままだろう無造作な栗色の髪が光を浴びてキラキラと光っているのが見えた。 啓介は運命的な偶然を感じてその場を立ち去りがたかったが、触り心地のよさそうな髪に強引に指を差し込みそうな衝動に耐えきれなくなった。一歩踏み出しドアを開けた音に拓海の体が跳ね、啓介もそれに驚いて固まってしまった。
「何、だよ」
「あの……」
「何だ?」
「あの、何て言うか、え……えっと」
「は?」
「あんま誘ってくれなくなったのって、その、……休みとか」
 もどかしげに眉を寄せながら、拓海は喉に何かがつっかえたように言いにくそうに言葉を繋ぐ。
「だっておまえ、そりゃさすがにキツイぜ」
 振った相手によくそんな提案ができたものだといっそ感心さえする。まさか拓海は啓介が告白したことをきれいさっぱり忘れているのではないか。そんな思考に陥っていく。
「か、……」
「か?」
 ぼやっとしている印象はあったが、こんなに言葉を選ぶようなやつではなかったはずだ。いったい拓海は何を言いたいのか。啓介は訝しげに片眉を上げる。
「彼女、できたから……ですか」
「…………な、んだよそれ」
 いったい誰の入れ知恵だ。ケンタか。史浩か。それとも兄の涼介か。勢いのままFDのドアを閉め、啓介は拓海を睨み付けた。 こんなことならきれいさっぱり忘れられているほうが何倍もマシだ。啓介の変貌に拓海は戸惑ったような表情で見上げてきたが、燻り続けた思いが爆発した今、怒りはおさまらない。
「あいつと付き合えって? ふざけんなよ、おまえがそれを言うのかよ!」
「啓介さ」
「ああそうか。そしたらおまえに言い寄る心配ないもんな」
「違、そんな意味じゃ……っ」
「うるせーよ! できるもんならそうしてえよ、オレだって!」
 握りしめる拳が震える。こんなのは八つ当たりだ。 そう思うのに止められない。
「できるわけねえだろ。男同士だとかそういうの、全部ぶっ飛んじまってる。頭も心ン中も、藤原で満タンなんだよ。どんだけ頑張ったって出てってくれねーんだからしょうがねえだろうがッ」
「け、啓介さん」
「オレが藤原に悪いと思ってんのは黙ってられなくて伝えちまったってことだけだ。藤原のこと好きだって気持ちは、おまえにだってどうこう口出す権利なんかねーんだよ」
 言い捨てて車に乗り込もうと背を向けると、予想だにしない衝撃が胸と背中に走った。
「いってーな! てめ、何すんだよっ」
 FDに押し付けられて体が思うように動かず上半身だけで振り返ると、タックルをしかけてきた拓海が啓介の背中にしがみついている。
「な……っ、は、なせよ藤原」
「いやだ」
「離せってこのっ」
「嫌だ!」
 腰に回された拓海の腕にさらに力が入った。反対に、ムキになった啓介の体からはするすると力が抜けていく。
「勘弁してくれ。同情ならいらねえんだよ」
 背中に拓海の頭がぐりぐりと押し付けられているのを感じ、思わず頭を抱える。
「オレは、自分でも勝手だと思うけど、啓介さんがあの子と付き合うって聞いたときすげーいやだって思いました」
「おまえ自分が何言ってるか分かってんのかよ」
「分かってます。啓介さんが誰かと付き合っててもオレにはショック受ける資格もないって分かってるけど」
「だから付き合ってねえって」
「試すようなこと言って自分でも最低だって思います。でも……啓介さんが特別、なんです」
「────、……な」
「……き、なんです」
 あまりに小声過ぎてうまく聞き取れない。いや、この期に及んで拓海の言葉を都合のいいように変換して脳みそに届いているのかもしれない。
「ふ、藤原が言ったんだろ、それは恋愛感情じゃないって……なあ」
 問いかけには唇を引き結ぶ拓海に、啓介はこめかみに青筋を浮かべる。 腰に回った手首を掴み上げて振り返った。うつむく顔も、耳も、首筋も、見えるすべての肌が赤く染まり上がっている。
「そう思ってたんですけど、オレだって自覚したの最近で、その」
「何……なんだよ、振り回すのもいい加減にしろよな!」
 感情に任せて拓海の両肩をつかんでいた。手のひらに感じる熱が、緊張で冷えた指先に広がっていく。 体の横で握った拓海の拳が震え、肩までその振動が伝わっているようだ。啓介は無意識に拓海を抱き寄せていた。骨が軋むほどの力でも、拓海がこの腕の中にいるという実感がわかない。
「ごめん、啓介さん。でもオレ、勝手だって言われても、手遅れでも、一番近くにいたいんですよ」
 そばにいると言った拓海の顔も握った手のひらの温度も何もかもが曖昧な記憶だ。それどころか夢か、熱が見せた幻だとずっとそう言い聞かせていた。
「……人の気も知らないで勝手なことばっか、いいやがって。オレが、どれだけ……ッ」
 頬にあたる柔らかい髪に自然と手を伸ばしていた。その優しい手付きに、拓海がひゅっと息をのんだ。
「もっ、オレもう遅いんじゃないかって思っ……」
 言葉に詰まり、今にも泣きだしそうな顔で拓海が啓介の体を抱きしめた。背中に回された腕の強さに、胸が締め付けられた。
「マジ、遅っせーよ、ぜんぜん遅い。けど、許すッ」
 情けなくも涙声になっていた。互いの肩に頭を埋めて確かめ合うように抱きしめる。もうすぐ始まる夏の暑さだけではない、確かな熱がここにある。 啓介は少し体を離して拓海の頬を両手で覆った。 大きな目を揺らめかせながら視線を上げる拓海に請うように鼻先を触れ合わせる。拓海は睫毛を震わせ、啓介の腕に手のひらを添えながらゆっくりと目を閉じた。

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2015-10-17