おやすみまたあした

「どうしたんだよ、その絆創膏」
 秋名湖畔に停めたハチロクの助手席で窓を開け紫煙を燻らせていた啓介が、短くなった煙草をアッシュトレイに押し付けながら拓海の右手首に貼られたそれにふと気付いたように問いかけてきた。
「あ、仕事中にちょっと」
 運転席の、全開にした窓の向こうに見えるFDに視線をやっていた拓海はその声に振り返り、七分丈の袖を引っ張り手首の内側に貼った絆創膏を隠しながら呟くように答えた。
「ひでーの?」
「いえ、全然。痛くもないんですけど服に擦れると痒くて」
「ふーん」
「暑くてつい作業着の袖捲くっちゃうんですよ」
  さすがに一日中つけっぱなしにしていたせいか、端のほうから粘着が弱まっている。それを指先で貼り直しては言い訳のようにそんなことを口にする。
  人の気配もない夜の秋名湖で、啓介は向こう岸の灯りをしばらくの間ぼんやりと眺め、おもむろに自分が身に着けているリストバンドを外すと拓海の右手を取り、絆創膏が剥がれないように慎重に装着した。
「やるよ」
「えっ、そんな、もらえませんよ」
「あんま使ってねーやつだから別に汚くないぜ」
「そうじゃなくて」
 自分の右手首を覆うリストバンドは啓介の体温が残っているようだった。まるで啓介の熱い手に手首を掴まれているような気になって、濃い色のそれを左手でいじりながら、戸惑いを覚えてうつむいた。
 そんな拓海をよそに啓介はバツが悪そうに首筋を掻きながら切り出した。
「あのさ、これからしばらく会えない」
 思いがけない言葉に顔を上げると、啓介の手が耳たぶへと伸びてくる。 それがキスの始まりを意味するサインだということを、拓海は最近になって気がついた。息を詰めて、啓介の唇を待った。 軽く触れた唇はすぐに離れて、かと思えば次の瞬間には荒々しく拓海の唇を塞ぎ舌を絡ませてくる。上顎や頬の内側まで愛撫され、少しも離れまいとする熱く大きな手に両頬を包まれた。 背中に手を回し、啓介のキスを受け入れて応える。
「ん……、は、ぁ……」
 吐息で名前を呼ぶと啓介の親指が目尻を優しく撫でてくる。ゆっくりと唇が離れ、くすぐるように鼻先を擦り合わせてきた。 焦点の合う距離で啓介の目を覗きこむと、啓介は名残惜しそうにもう一度唇を合わせた。
「…………」
 いつもなら、少しの時間でも暇を見つけては拓海に会いに来ていた啓介が、珍しく会えないと言う。 彼が敢えてそう言うのならば、会いに来るのは難しいということだろうし、もしかしたら何かしら切羽詰まった状況にあるのかもしれない。だけどそれを聞いていいものかと開きかけた口を噤んだ。
「なんでか気にならないのか?」
「……啓介さんが言わないなら、オレは聞かない」
 ずるい言い方だったかもしれない。だけど図々しくもなれないでいた。
「そんな顔すんなよ」
 啓介は笑いながら拓海の鼻をぎゅっと摘まんだ。
「オレにとってはたいしたことじゃねえけど、絶対やらなきゃいけないことなんだよ」
「……意味がわかりません」
 自分が今どんな顔をしているのか、内心は焦る気持ちでいっぱいだった。だけど啓介の負担になりたくはないし、重荷に感じてほしくない。そんなのはご免だ。
 表面的に不機嫌さを滲ませて鼻をさすりつつ啓介を見やる。啓介は拓海の視線に笑顔を返しながらポケットから煙草を取り出した。
「実は大学のな、レポートが溜まってんだよ」
 正直なところ真面目に通っているようには見えないが、そういえば大学生だったと思い出した。部屋の中で雪崩を起こした教科書や雑誌の隙間から提出期限の過ぎたものと間近のものがいくつか出てきたのだと言う。
「それやり終えたらまた連絡するから」
「分かりました。じゃあ、えっと、頑張ってください」
 まさか自分と会っている時間のせいでそのレポートができなかったのではないかという疑念が浮かぶ。 仮にそうだとしても拓海に責任はないものの、だからと言って自分にはまったく関係ないことだと切り捨てられるほどドライにもなれなかった。啓介は吸わないままの煙草を箱に戻し、拓海の肩を掴んだ。
「そんだけ?」
「え?」
「他になんかないのかよ」
 真剣な目が拓海を射抜く。啓介の求める答えは浮かばず、見つめられることに次第に鼓動が速くなって思わず息をのんだ。
「す、みません」
「だークソッ」
 いきなりの大声に驚いて拓海は何度も瞬きを繰り返した。
「分かってるんだよ、オレだって本当は。おまえがそういうの言うやつじゃねえってことは」
 啓介は自分に言い聞かせるように言いながら、拓海の両肩を力強く掴んで視線を合わせる。
「会えなくて寂しいって言って」
「え……?」
「次に会えるのが待ち遠しいとかでもいい」
「えええっ」
 あまりにもこっ恥ずかしい台詞に拓海は動揺を隠せないでいる。何だって自分がそんな歯の浮くような台詞を言わなければならないのか。目の前の啓介は真剣そのもので、輪をかけて恥ずかしいというのに。
「い、いやですよオレ」
「おい頼むよ、一応留年かかってんだぞ」
「だからって何でオレがそんなこと言わなくちゃいけないんだよ」
 詰め寄る啓介の目はぎらついていて、力強い腕は拓海の体を運転席に押し付けている。逃げようもない狭い空間で、言え言わないと押し問答を繰り返す。 しつこく食い下がる啓介に、拓海がヤケクソ気味にこんなくだらないことを言い合っている時間をそのレポートとやらに回せばいいのではないかと言い放つと、啓介はぴたりと動きを止めて口を閉ざした。
 長い長い沈黙と重苦しい空気が車内を包む。項垂れた啓介を前に、さすがに言い過ぎてしまったのかと拓海が口を開こうとしたとき。
「分かったよ」
 それだけ言い残すと、啓介はハチロクを降りた。慌てて拓海も啓介の後を追ってハチロクを降りて呼びかけるが、啓介は振り向きもせずにFDに乗り込み、その勢いのまま走り去ってしまった。
「……啓介さん」
 拓海は無意識にリストバンドを握りしめていた。

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2013-09-03

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