おやすみまたあした 2

 高崎の自宅に向かう間、それこそ文字通りその間中、啓介は後悔しっぱなしだった。
 あんな言い合いをするつもりも、まして情けない捨て台詞で拓海の前から去るつもりなんてさらさらなかったはずなのに、たった一言を頑なに拒否し続けられればどうしたってムキになってしまうのだ。 あのときの拓海の一言が売り言葉に買い言葉なのは頭では分かっていても、くだらないと切り捨てられればさすがの啓介でもショックを受ける。
 自分でも実りある会話だとは露ほども思わない。 拓海の言う通りくだらない、犬も食わないレベルの低い諍いだ。それでもやはり、恋人からのお願いとあれば最後はきっと折れてくれると思っていた。 たとえ嫌々ながら言われても、拓海の言葉があれば頑張れそうな気がしていたのだ。結局のところそんな甘えを見透かされたのかもしれない。
「何やってんだよオレは……ッ」
 恋人のピンチに優しい一言すらくれないつれない相手でも、啓介にとってはこれまでにないほどハマっている人間だ。 余裕さえあればあの手この手で懐柔できなくもないが、もはや叶わぬ願いとなった今、残念ながら拓海を宥めすかして機嫌を取っている時間の猶予はない。 とにかく溜まりまくったレポートを光の速さで終わらせて、拓海に再び会いに行くしかない。
 鮮やかなイエローの車体は火の玉のごとく深夜の国道を駆け抜けていった。

 帰りついてまず、雪崩の中に埋もれたレポート用紙と必要な資料を救い出して優先順位を決めていく。物が溢れかえった部屋の中はかえって集中できることもある。 久しぶりに机に向かい、まずはレポート用紙を広げるスペースを作るところから始まるのは予定外ではあったがさっそく作業に取り掛かった。
 頭の中では、真っ赤になった拓海の顔やキスの合間に漏らした吐息、潤んだ視線が次々と浮かんでは消えていく。何とか頭の隅にそれを追いやりかつてないスピードで資料に目を通してはレポートの筋を組み立てていく。

「啓介、起きてるのか?」
 部屋の扉をノックする音が聞こえ、視線をやると兄の涼介がコーヒーを片手に部屋に入ってくるところだった。
「あれ、え、もう朝?」
 徹夜をするつもりではなかったものの自分の予定よりも大幅に集中できていたようで、カーテンの隙間から白んだ空が見えた。
「なんだ、寝ていないのか」
「アニキこそ、寝てないのかよ?」
 啓介が大きく伸びをすればギシギシと体が悲鳴を上げた。涼介はいつものことだと言うように肩を竦め、反対の手に持っていたペットボトルを啓介の机に置いた。
「張り切るのはいいがペース配分を考えておけよ」
 何も言っていないのに見透かしているようなアドバイスを残し、涼介は自室へと戻っていった。
 集中力が途切れて眠気が顔を出し始め、ミネラルウォーターを口に運びながらレポート用紙を読み返す。 ところどころミミズが這ったようなとても読めそうもない字をあとで修正しなければと付箋を貼り付け、シャワーを浴びにバスルームへと向かった。
 脱衣所の鏡に映った啓介は、拓海と会っていたときの格好のままだった。着替えもせずに朝まで集中していた。違うのは手首にあったリストバンドがないことだけだ。
「くそっ」
 本当はもっと触れていたかった。キスをして耳朶を噛み、首筋に舌を這わせ、肌を味わっていたかった。それをどう間違えてしまったのか些細なおねだりだと思っていたものは予想以上に爆弾だったようだ。 ちゃんと分かっていたつもりで、だけどもやはり拓海に言葉を期待してしまう自分を抑えられない。恥ずかしさや苦手意識を超えて、たった一言を伝えてほしいだけなのだ。 それがどれほど啓介にとって救いになるか、そして力になるかを、拓海はちっとも分かっていないし分かろうとしない。 真っ赤な顔で啓介の視線から逃れる仕草が、どれだけ雄の本能を刺激するのかすら理解していない。
 熱い湯を浴びながら、勃ち上がった陰茎に手を伸ばす。 拓海を手に入れる前から何度と右手を汚して、手に入れた今でさえままならない感情をこうしてひとり吐き出している。
 シャワーを浴びて出すものを出したらすっきりしたのか無性に眠くなり、髪を乾かすのもそこそこにベッドにもぐりこんだ。

 目が覚めたのは昼を少し回ったところだった。今さらではあるが出席日数も稼げるうちに稼いでおかなければいけない。午後からの授業は出席することにした。 家の駐車場にはすでにFCはなく、兄の超人ぶりに思わず苦笑いを浮かべた。
 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺しながら講堂の一番後ろの窓際席に腰を下ろす。日当たりが良く、空調の利いた部屋はいつにもまして眠気を催す。 教壇の人物は生徒がどれだけまばらであろうと眠っていようとなにも構わずに講義を進めていく。淡々と過ぎていく時間、目を閉じればまどろみの中でいつも眠そうな顔をしている拓海の顔が浮かんで来てしまう。
 今はできるだけ拓海のことを考えたくない。考えれば考えた分だけ会いたい気持ちが募ってしまうからだ。振り払うように頭を振って目頭を押さえた。
 頬杖をついて窓の外を眺めているとポケットの中で携帯が震えた。まさか拓海からかと淡い期待を抱きつつも画面を見るとそれはゼミ仲間からのもので、授業後に構内のカフェテリアで落ち合うことになった。


 講堂から待ち合わせ場所へ向かう間にすれ違う顔見知りと簡単な挨拶を交わし、足を進める。中をたいして探さなくても入ってすぐの窓際の席に友人はいた。隣には彼女ともう一人の女性が席に着いている。友人は入ってきた啓介にすぐに気がついて、手を上げている。
「よう」
「おう」
「なんだよ啓介、すげー顔だな」
「あー?」
 ひと眠りはしたものの、徹夜明けでクマを携えている啓介の顔を見るのは珍しい。そう言いたげに目元を指さし、男は頬杖をついた。
「で、話ってなんだよ?」
 向かいの席に腰を下ろすやいなや、啓介は女性陣に目もくれずに単刀直入に切り出した。
「やー……、実はさ。金曜の夜ヒマなら飲みに行かないか? そのー……」
「女と飲んでる暇はねえな」
「おまえ察しが良すぎだろ」
「レポート溜めちまってるからな。そういうの行ってる時間なんかねえ」
 時間があっても行かないことは付き合いの長いこの友人なら知っているはずなのに。
「ていうかさ、おまえ彼女いるじゃねえか」
「あーそう、そうなんだよ、けど実はその……な?」
 言い淀むところを見れば要は啓介との間を取り持ってほしいと彼女経由で依頼されたということなのだろう。それがこの隣の女性かどうかは啓介にはどうでもいいことだった。すでに尻に敷かれている友人のことだ。 結果は分かり切っているのに断り切れずに話を持ってきたのだ。彼にも彼女にも、そしてその友人にも期待させることや無駄な時間を過ごさせることもしたくない。何より目下の課題が終わればすぐにでも会いたい人物はすでにいる。
「オレ今ちゃんと付き合ってる相手いるからさ」
「えっ、マジで?」
「ああ。オレそいつしか目に入らねえって言っといて。じゃーな」
 笑顔でそう告げて腰を上げると、友人は引きつった笑顔で辛うじて「ああ、また」とだけ口にして固まっていた。
 啓介は部屋にある資料だけではどうしてもレポートが進まない箇所があるのを思い出し、ついでだからと構内の図書館に向かうことにした。 涼しく静かな空間は絶好のお昼寝スポットなのが心配の種ではあったが、全てのレポートをさっさとやり遂げて拓海に会いに行くという目標を思えば力が湧いてくる。
 入館ゲートをくぐり、適当な席を確保してから膨大な蔵書から目当ての場所を探り当て、棚の前に立つ。数冊手に取って中をぱらぱらと確かめ、そのまま席に戻ると携帯を取りだした。 拓海からは電話もメールすらも届いていないのに、たった今会っていた相手から、「メルアドくらいは教えてもいいか」とメールが届いていた。小さく舌打ちをして素早く「無理」とだけ返信すると電源を切り、バッグの中に放り込んだ。

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2013-09-05

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