おやすみまたあした 3
昨夜はさすがに意地を張りすぎたと頭では分かっていても、どうしても啓介の望む言葉を口にはできなかった。
まさかあんなに怒ってしかも帰ってしまうほどのことだったとは予想外の反応で、いつものように諦めて折れてくれるとばかり思っていたから、もしかしたら自分で思っている以上に啓介に甘えていたのかもしれないと拓海は少し落ち込んでいた。
仕事から帰って自室にこもり、枕の上に置いた携帯電話と睨み合いを繰り返すこと一時間。
啓介はレポートをやり終えたら連絡すると言っていた。だから、もしかしたらそれが終わるまでは下手に連絡をしないほうがいいのではないかとさっきから迷っているのだ。
もし集中しているところだったらと思うとなかなか踏ん切りがつかない。啓介の邪魔をしたいわけではないし、負担にもなりたくない。
だけどあの整った顔を見ずに済む電話なら、たとえどれだけ恥ずかしくても自分の一言で頑張れると言うなら言ってやろうじゃないかと思えるし、たちまちに電話を切ってしまえば深追いされることもないはずだ。
「よし」
拓海は意を決して携帯電話を手に取り、震える指でボタンを────押そうとしてまた諦めて元の位置に戻した。
「やっぱりだめだー」
ボスンと枕に顔を埋め、大きなため息をついた。
翌朝、配達帰りにもしかして啓介が待っていたらどうしようという不安は、杞憂に終わった。しばらく会えないと言ったあの言葉の通り、こんなところまで来ている時間はきっとないのだ。
ハチロクをガレージに入れ終えて、右手に着けたリストバンドを指先でそっと撫でた。電話するかしないかで迷った昨夜はいつもより眠りに就くのが遅かった。今朝は配達もあったしおかげで寝不足だ。
出勤時間まではまだ少しある。何も考えずにとにかく眠りたかった。
遅刻ギリギリに出社した上にその日は気もそぞろで、先輩からの注意も受けつつ何とか一日のシフトをこなした。
勤務終了後、先輩が見るに見かねたのか、いつもなら新妻の待つ家へと急ぐ彼が珍しく食事に誘ってくれた。
先輩のお気に入りという会社の近所にあるラーメン屋に入る。カウンターが七席と四人掛けのテーブル席が三つある古い建物で、壁や床は長年の蓄積で薄汚れて見えた。それがかえって美味しそうと思わせるんだと先輩は得意気に言う。
実際その店はこの近辺の会社員には大人気で昼は行列になることもある。拓海は並んでまで食べたいとは思わず入ったことはなかったが、ひと口食べてその人気の理由がわかったような気がした。
今度啓介を連れてくるのもいいかもしれない。そんなことが頭を過ぎった。
「うまいっすね」
「だろ。いける口なら替え玉していいぞ」
嬉しそうに笑うその顔に、啓介の顔が重なる。ふたりの造形は似ても似つかないはずなのに、どこか似通ったものがあるように感じた。
最後に見た啓介の顔は険しいものだったせいかもしれない。思い出すとまた気持ちが落ち込んでくる。悟られるほどの変化が顔には出ない拓海だったが、暗い気持ちを飲み込むように勢いよく麺を啜った。
食べ終わった後も他愛もない世間話や先輩と奥さんの馴れ初め話を聞くだけで、余計な詮索をすることも説教することもなく、面倒見の良い先輩に恵まれているのがありがたかった。礼を述べて先輩を見送り、帰路につく。
ジーンズのポケットから取り出した携帯を見ると樹からメールが届いているだけで、啓介からは音沙汰がなかった。ここでも発信ボタンを押す勢いがつかず、そのままポケットにしまうと足早に家に帰った。
風呂から上がると寝不足を理由に早々に床に入り、暗い部屋の中でしばらく天井を見つめていた。
樹からのメールは「暇なら秋名に行かないか」というものだった。なんとなくその気になれず断りのメールを入れたが、翌日、ぽっかりと空いた時間に樹の勤めるスタンドへ寄ってみることにした。
その夜は樹の練習に付き合った。樹がコツコツと手を掛けたハチゴーは最初の頃から少しずつ内装や外観が変わっている。テクニックも、少しずつではあるが進歩している。
お調子者の性格は相変わらずで、そんな樹に拓海はずいぶん助けられてきた。大っぴらにすべてを打ち明ける性格ではない拓海が人知れず抱えたモヤモヤとした不安も樹といれば気が紛れる。
もちろん樹自身はそんなつもりがないとしても、かけがえのない親友という存在は何より気持ちを楽にしてくれる。
頂上で車を停め、缶コーヒーを啜りながら見慣れた夜景を眺める。樹は男じゃなくて可愛い女の子と見たかったと口を尖らせ、拓海はいつものように薄いリアクションをした。
ちょうどそのとき、拓海のポケットの中で携帯が鳴った。樹がさては女だな、と拓海に責め寄るのをかわしながら画面を確認すると、そこには高橋啓介と表示されていた。
できれば一人のときに鳴ればいいのにと電話に出るのをためらっているうちに、啓介からのコールは切れてしまった。
「出なくて良かったのかぁ?」
「うん……あとでかけるよ」
「そっか。じゃああと一本だけ下り付き合ってくれよな」
言いながらハチゴーに乗り込む樹に続き、助手席のドアを開けた。
樹と別れて部屋に戻り、一番に携帯を取り出した。高橋啓介の名前がディスプレイに浮かび、それだけで緊張感が高まった。階段を駆け上がって少しだけ呼吸が乱れているのも構わず、すぐに発信ボタンを押した。
耳元に当てるとコール音ではなく電波が届かない場所にいるというお決まりの案内が流れている。無言のまま電話を切ると、不貞腐れるように布団にもぐりこんだ。
同時刻、啓介は自分の起こした行動に瞠目した。拓海に電話をかけたのはまったくの無意識だったのだ。レポートをまだ半分も終わらせていないというのに、まるで禁断症状のように声だけでもいいからと拓海を求めてしまう。
これではいけないと戒めを込めて携帯の電源を切り、資料でパンパンに膨らんだバッグの奥深くへと隠すようにもぐらせた。
学食の二階にあるラウンジのカウンタースペースでひとりレポートに励んでいた啓介は、目の前の窓ガラスに自分の顔が映っていることに気がついた。陽が落ちるのも気付かずに集中していたようだ。
「ケツいてえ」
ペース配分を考えろという兄、涼介の助言を思い出し、座り心地の良いとは言えない硬い座面のカウンターチェアから降りて腰を反らせた。
「なんだ啓介いたのかよ。電話繋がらなかったぞ。なあ、メシ行かねえ?」
声を掛けられ振り返るとゼミ仲間の友人がいた。今日は彼女は一緒ではないらしい。
「ああ悪い、電源切れてんだ今。メシか……いいぜ」
腕時計を見ればちょうど腹も空く頃だった。一階の学食は営業時間も終わっているためふたりは大学近くの定食屋に入ることにした。
「おまえ、この前のアレわざとだろ?」
向かいに座った男は運ばれてきたコップ一杯の水を飲み干すと、ピッチャーから注ぎ足しながらいきなり核心をついてきた。
「なんの話だよ」
しらを切りながら、やっぱりあのとき一緒にいた人物だったのかと顔も思い出せない相手を思い浮かべる。
「メールもダメとか言うからあのあと大変だったんだぜー」
「へーへー、ご苦労さん」
相手のぼやきに気持ちのこもらない台詞を返し、注文を終えるとメニューをテーブルの端へと戻した。
本人が直接アプローチをしてくるのであればまだしも、友達の彼氏に仲介を頼む時点でその程度の気持ちなのだろうと啓介は判断したのだ。そういう相手とはきっと友達関係すら築けない。どう思われようと関係はない。
そもそも拓海でないなら誰であれ応えることはできないのだから、本気だろうが興味本位であろうが結局は無意味だ。
拓海はきっと嫉妬なんてしないしこれっぽっちも気にする素振りは見せないだろう。むしろ啓介がこれほど拓海に入れ込んでいるとは思ってもいないかもしれない。
「で、いつから付き合ってたんだよ?」
「いつだったっけな」
「どんな子? 顔は可愛い系?」
「すげーかわいい」
顔だけじゃなくて全部だけど、と心のうちで呟きながら拓海のことを思い出していた。
いくら会いたくて仕方なくても、声が聞きたくてたまらなくても今は思いを募らせている場合ではない。
現在取り掛かっているレポートのほかにも二つ三つはあったはずだ。それが終わらなければどれだけ恋焦がれても会ってしまうわけにはいかない。もちろん声ぐらいは聞きたいと思う。
だけど声を聞いてしまえばきっと我慢が利かなくなってしまうだろう。たった数日でこのザマなのだ。声なんて聞いてしまえばすべてを放り出してしまいかねない。
拓海が電話に出なかったことは啓介にとってはよかったのかもしれない。
「おまえはどうなんだよ、女できたとか聞いてねえぞ?」
「あーへへ、もうすぐ二ヶ月ってとこかな。ちょっとヤキモチ焼きだからさ」
変えた話題が失敗だったのか彼は表情を曇らせ、頭を抱える。
「彼女は大事なんだよ。けど男のダチにすら連絡取りづらくなるとな」
「あー、まあいるよな、そういうやつ」
束縛イコール愛されてると思えるタイプなら問題はないのだろうと同情の気持ちが湧いてくる。
啓介は拓海と恋人という関係になって以来、自分は様々妬いた記憶はあれどヤキモチを焼かれたという記憶がほとんどなかった。面倒はないが、それはそれで少し寂しい。
「全然ヤキモチ焼かれないってのもどうなのって話」
「それ羨ましいけどな。信用されてんだろ」
果たして本当にそうだろうか。啓介にしてみれば浮気などはあり得ないが、あまり自己主張をしてこない恋人のことだ。
万が一何らかの不満を持っていたとしても、それを積極的にぶつけてくるようなタイプではない気がする。
「オレらなんてバイトの日以外はだいたい一緒にいるからさ、オレもレポートひとつ出し忘れてた」
それでこんな時間、と乾いた笑いを浮かべ、運ばれてきたハンバーグ定食と鯖の塩焼き定食に箸を伸ばした。
家に帰り着くと、啓介は自室ではなくリビングのソファに突っ伏した。うつ伏せたままバッグの底をごそごそと探って携帯電話を取りだした。電源を入れると数件のメールが届いたものの、やはり拓海からは何もない。
「メールくらいくれてもいいんじゃねえの」
力なく呟いてクッションに顔を埋めると、涼介が風呂から上がってリビングに入ってきた。
「帰ってたのか啓介」
「んああ」
間の抜けた返事をし、手に持っていた携帯をバッグに突っこんだ。
「ずいぶん情けない顔をしているな」
「うるせーなあ……ほっといてくれよ」
「反抗期か」
「そういうんじゃねえよ。ねえけど……」
啓介の顔はクッションに隠れて見えていないはずの涼介の言葉にも気付かずため息をつく。
涼介はキッチンの大きな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、寝そべる啓介の隣のソファに腰を下ろした。無言のままで、喉を潤す。溜まったものを吐きだしたいはずの啓介の言葉を待ってやっているのだ。
「……付き合ってるやつに、忙しいからしばらく会わねえって言ったらそいつメールすら送ってこねえの」
「それで、おまえからは送ってるのか?」
「いや」
「おまえは極端なんだよ、啓介。ペース配分も、バランスも大事だろう」
涼介はふうと呆れたようなため息をつき、脚を組み変えた。
「だってアニキ、メールでやり取りすんのまどろっこしくなって電話しちまったら会いたくなるじゃねえか」
「熱烈だな」
「そうだよ、オレがこんだけ思ってるっつーのにふじわ……じゃなくてあいつはッ」
啓介がうっかり口にした名前を、気付いているはずの涼介は聞き流したふりをして「惚れたほうが負けだな」と笑った。
2012-09-07
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